意志と共感としての世界

明けましておめでとうございます。

ようやく1月11日になって今年最初のブログを書いています。

昨年に引き続き、今年も粛々と一地方寺院の挑戦を続けて行きます。

さて、早いものでこのサイトも立ち上げてから丸3年が過ぎました。
サイトの中で『情報空間の自燈明』というページを設けて、そこに綴っている本サイトの独善的な趣旨も3年間全く修正せずに放置しているのですが、そろそろ一新する時期かなと思っています。

強いて一つ良かったと言えることは、本サイトの趣旨を書く上で引き合いとして話題に上げたイスラム国が、2015年年末当時の予想を良い意味で裏切って勢力を減退させてくれたことです。

しかし、いまだに新帝国主義の理想を捨てきれない中国はチベットを始めとした周辺国に相変わらず民族浄化を仕掛けています。
また、年末にはTPPがついに発効され、それの完成形への布石として昨年中には種子法が廃止されたりカジノ整備法が成立したり、また出入国管理法の改正案が閣議決定され、いよいよ新自由主義が加速してきました。

という訳で、年明けから暗いニュースを並べ立てていますが、私の行動原理として先ずは考えられるだけの不安要素を列挙したうえで、「それでも前へ進むのだ!」という自らの気概を確認しておかなければ気が済まないので、ここまでは前置きということでお許しください。

さあ、ここから本題に入りますが、ショーペンハウエルの意志と表象としての世界を言葉だけ意識して、私なりに『意志と共感としての世界』という随想をここへ少し書きとめたいと思います。

先ず、私が表題の中に用いている『~の世界』とはなにもあなたにとっての世界ではないかもしれないということを押さえておいてください。あくまで『私にとってこの世はそう見えている』ぐらいのことに過ぎないという程度で読んでもらえれば幸いです。

この事を強調しておきたい理由は、地球に暮らす多くの人が「人生とは何か?」「私とは何か?」「生きるとは?死とは?魂とは?神とは?悟りとは?・・・」などの問いを延々と繰り返している状況に正直いい加減うんざりしてしまうからです。

言葉に語弊があるようなのでもっと厳密に言うと、個人個人の探求心のようなものを批判するつもりは全くないですし、また「真理とは○○である!」とのたまう何処の教祖様にも何の怨みも無いのですが、敢えて何様のつもりで言わしてもらうと、『問いというものがあって答えが有るというその構造』が私の気に入らないのです。

さらには、何億通りもの答えと組み合わせがある中で、ある気の利いた一人の解答が数の力と歴史の流れの中で事実上採用されると以後それ以外は在りえないとなる排他性や、またそれらへのカウンターの如く「批判される我こそが正しい!」となる暑苦しさも辟易しますし、そんな前者も後者も結局は『ゆあーん、ゆよーん』と私には見えているのですが・・・。

そもそも、この地球に暮らす我々は同じ世界に生きているようで、実際は意識の世界に大きく依存しています。

例えばタイムマシンという乗り物で過去へ行くことが出来て、昔の自分と会うことができたとしても、その『過去』とはタイムマシンに乗った人の過去ではなく、よっこらせっとタイムマシンに乗り込みパネルを操作してタイムトラベルを終えてマシンを降りて昔の当人に会いにてくてくと歩いて行く、というタイムマシンに乗った人の一連の時間の流れの上の現在であり、そいういう意味ではいくらタイムマシンでさえも個人の意識を超越することはできません。

ですから、翻って世界や宇宙を認識することや、神や真理を捉えることなどの形而上的な問題に対しても、それらを覚ったとか、見えたとか、教理を確立したなどと言うのはあくまでも個人の意識の範疇の中だけで完結していることなのです。

しかし、だからと言ってそれを個人の意識の中だけで留めておかなければいけないという束縛も全く必要ないのです。

人間としてこの世に生まれてきた以上、自己表現や自己実現は人間として生きる為に欠かせないことなので、大いに自意識過剰で他者に宣べ伝えて結構なのです。

「これ善くない?」という意志から万事は始まると思うのです。

そしてそこで大事になってくるのが『共感』なのです。

ブッダの金言にしてもイエスの福音にしても、なにも当時の民衆が過去の聖者と予言者が残した厖大な言行録に照らし合わせて厳密な査定の内に「良い事を言っている」と判断された訳ではけっしてなく、当時の人々に絶大な波紋上の共感を与えたからこそ現代まで大切に敬われているのです。

また言葉や理性だけではない何らかのスーパーパワーが他者に与える敬慕の情も大きな共感のひとつと言えるでしょう。

何らかの苦悩を抱えながら、それを克服ししつつ何かを学びそこから他者に何かを伝えようとする行為、それ自体がとても美しく尊いことだと私は思います。

またそれに共感せずにはいられない他者の存在、その両者はけっして似た者同士などでなはなく、一方的な憧れを抱く関係かも知れません。しかしそこから人間同士が己の意識の限界を超え共感という受容的な過程から、解釈や理解や昇華という能動的な過程を経てやがては何らかの学びをまた違う他者へと宣べ伝える。

この営みの繰り返しによって、科学のベクトルとは異なる現在のこの世界に溢れるあらゆ精神文化的なものは築かれてきたのです。

詰まるところ私が言いたい事は、パウロの手紙からとある職人のおやっさんの書き残しに至るまでこの世で繰り広げられる無限大の精神文化、つまり意志と共感全てにもっと感動してほしいということです。

つまり、先に述べた『問いというものがあって答えが有るというその構造』ではなく、数限りない『意志に対しての共感』に想いを馳せた時の感動です。

その感動がある人は、自分達とは主張の違う集団を排斥したり、また密かな優越感を抱いたりしないと思うのです。

『人と人とは解り合えなかったり、解り合えたりする』
そんな無限大の意志と共感のなかで個人の主張はとてもとても小さなものです。

ましてや、一世一代の博士論文でもなければ会社の命運を左右するプレゼンでもない、私を含めて素朴な市井の人々一人一人の主張などは尚更のことです。

でも、ご覧の通りの世界の混乱がある以上、恐らくこれらがすべて同じ主張に落ち着くことはないと思います。

ということは、少々強引な憶測ですが、この世は『存在』というたった一つのものが無限大の姿を取って表現されている場ではないでしょうか?
論理性を欠いているのですが、そんな不可思議なこの世では全てが同じになることもなければ、唯一無二の孤独も実は無いのではないでしょうか?

あたり一面だけでは、全てが一緒であったり孤独で在ったりすることも、少し視野を広げこの世界の混乱の渦に飲み込まれるだけで、否応なく解消されるはずです。

最後に、ふと思い出した忌野清志郎さんが訳したイマジンの一節を紹介して明るく新年を始めたいと思います。

夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君独りじゃない 世界中にいるのさ

南無

うちの集落の鎮守様、大元神社に初詣

taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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