問はずに死ねるか!?

昨日、岡本一志先生とのZoom対談、御陰様でなんとか終えることができました。
一週間前に配信のテストを先生と一緒に行って、その時はバッチリだったのが、本番は何故だか僕の音声がとても低くなってしまい、視聴者の方々にご不便おかけしたことが心残りです。
しかし、僕の予想に反してリアルタイムで70人ぐらいの方が常時視聴して下さっていたようで、反響のコメントも頂き大変嬉しかったです。
(終盤の方で僕が発したラディカルって言葉は根源的なって意味でした。そのまま根源的って言えばよかったんですよね💦)

 

さて、昨日のこととは直接関係は無いのですが、僕のYouTubeチャンネルに頂いているある種のコメントは、僕にとってはかなり重要なテーマを孕んで且つそれを代表しているものなので、今日はそのことについて述べておこうと勢いで思いついた次第です。

いつも前置きが長くなるので今日はいきなり、テーマ「問はずに死ねるか!?」という本題から入りたいと思います。

ズバリ僕が問いたいのは、信仰とか真理とか信念などと呼ばれるものについてです。
もっと正確に言うと、「あなたは何故にそれを信仰しているのか?」、「どうしてそれがこの世の真理だと決めつけられるのか?」、「なぜそれを己の信念として保持しているのか?」という問いかけです。

この問いは、一見とても単純に思えますが、実際はあらゆる哲学的あるいは形而上学的難問に先立ち、さらに敢えて誇張して言わせてもらえば、昨今の世界の哲学・思想分野に於いてちょっとしたセンセーショナルなトピックとして扱われている『思弁的実在論』にも関係する問いかけではないかと僕個人は考えています。

思えば、僕は子どもの頃からこの問いを考え続けてきました。それは小難しい本を読み始める以前から、大袈裟に言えば僕が物心ついたその瞬間から、もっと言えば、その物心とはこの問いかけが言葉にできなかったもどかしさであり、それこそが自分と世界の認識に直結しています。

要するに、「みんな、なんで、それをそうだと思っているのか?」という極めて率直な問いです。
その直感的な疑問を僕が最初に抱いてから現在に至るまで、その問いに的確に答えてくれた人物はたった一人しかいませんでした。
しかも、その人は現実には存在していない(現実という言葉を敢えて普通の意味で使っています)、リチャード・バックの小説の中に登場するドナルド・シモダただひとりなのです。

僕は、その問いを自分の中だけで考え続けついにはそれが発酵という惨めな過程を経て、さらにそこから精製という自己中心的なカタルシスに至って、今滔々と述べている訳では決して無く、自分なりに常に外部との関係性を維持する中で、新たに得た概念や思想や実体験や、更には他者の地肉の通った経験や、そこからの学習や学びの中で、常に密かにこの問いを対照させたうえで前へ前へと発展させてきたつもりですが、いつまで経ってもその問いの向こう側へ辿り着くことはできませんでした。

「なんで、それをそうだと思っているのか?」、という問いを僕なりに解決していく一番妥当な手段は、それを主張する人の思想や意見を素直に聴き(精読とも言えます)、そしてそれを出来るだけ劣化させずに自分の思考の中に取り入れて言葉を組み替えてリライトしてフィードバックさせることで、それを主張した人はかなり納得してくれます。
その人の主張は論理的に緻密に構築されているものから人間にアプリオリに備わった情動に巧みに訴えかけてくるものまで様々ですが、とにかく多かれ少なかれ頷けるものが確かにあるのですが、それらをしっかりと踏まえたうえで、「で、それをあなたが自分以外の何かに当てはめようとする根拠は何のなのか?」と問えば、狂信者や知性でコミュニケーションできない人以外は誰も返答することができないのです。

このことは本当にそうでして、ある場合はここからの発展として、「君はなんでも頭でっかちに考えているからダメなんだよ。こんど一緒に体験してみよう!」という展開になって、いざ汗水ながしながら苦楽を共にしながら共通の実体験に移ります。
それらは労働でもイベントでも音楽でも修行でも果ては肉体的な交わりに至るまであらゆる実体験は、その時その場でそれを精神的にも肉体的にもそれを共有しようという意志に担保されてはじめて成り立つもであり、「・・・これなんだよね~!」「これですね~!」という不立文字の境涯の状態で共有している何かなのです。

そこまではいいのですが、読書や学習さらには実体験を経て獲得されたある種のイデオロギーやバイブスや果ては真理とまで宣るその何物かを、「じゃぁ、こんどはこれを一般化してみよう!」或いは「こういうことなんだって人に分からせてあげよう!」というアクションに移ります。

もちろん、そのアクションを起こす動機付けとしては、世界をより良いものにしたいとか、なんらかの自己実現を図りたいという人間として当然のごもっともなものがあることは重々承知の上なのですが、そのアクションにたいして僕が抱える躊躇みたいなものを、ほとんどの人が無意識に乗り越えていて、僕にはそれが不思議でしょうがないのです。

つまり、「いくら論理的で筋がとおっていようと、また科学的エビデンスに裏打ちされていようと、さらには共通の人類愛に根差した激しく情動を揺さぶるものであろうと、それが他者にあなたがそう思うように認識されたり許容されたりする保証はどこにもないし、またその他者が激しくそれを否定したからといってその他者を糾弾するのも、ちょっと違うんじゃないの?」
というのが僕が不思議に思うことです。

敢えて、不思議に思っていると表現していますので「」内も「じゃねえの?」的な疑問に敢えてしてあります。(笑)

幾分個人的な例を挟むと、僕は宗教関係だけでも、かなり主張の違う人々とご縁をいただき、かつ現在でも交流を続けています。仏教の各宗派はもとより、キリスト教諸派、敢えて固有名を出しますがいわゆる新宗教としてカテゴライズされる創価学会、幸福の科学、GLA、霊友会、崇教真光、阿含宗、天理教、生長の家、e.t.c、その他、産業革命のカウンターとして18世紀初頭から主にヨーロッパで生まれインドの聖人の威光をかりて世界中に波及したスピリチュアリズムに共感する人々、さらにはキプロスのダスカロスや多母さんと呼ばれ親しまれた菊池霊鷲氏などのヒーラーと交流をもった人々等々、千差万別の主張や思想を文字通り知ってはいます。
また、最近では科学と神智学と社会学がホリスティックに体系化されたヌーソロジーの展開や、認知科学的アプローチを多用した米国発祥の自己啓発の流れや、宗教はアヘンであると断言したカール・マルクス以下のヘーゲル的歴史観や唯物論、さっくりまとめてしまって失礼は承知ですがザ・レフトの流れをうける人々や、その反対に皇国史観に根差した愛国主義の人々、さらにはノンポリでサブカル的な機智とユーモアに溢れた人々。
そして、上に挙げた名称を全て知らないけれども、素朴に真面目に一生懸命生きている人々・・・。

さて、上に列挙した主義主張・人生論・哲学・バイブス等々、はどれかが間違っていてどれかが正しいのでしょうか?
それとも、何かしら一つだけ(それは↑には含まれていないかもですが)が正しくて、他は間違っているのでしょうか?

上に挙げたいろんな人々との交流を通して、僕がハッキリ断言できるのは、「真理とは○○である」なんてことだけで全てを丸く収めるのは不可能で、またそもそもの話が一介の一個人が全てを円く収めようなんて考えがおこがましいと言うことです。

では、世界は混沌なのでしょうか? そして混沌の奥にある者は虚無なのでしょうか?
人間にはその始まりと終わりや或いは底とでも言えるような全体像が認知できない、広大無辺にして無始無終の虚無に担保されているが故のこの多様性に彩られた混沌が生じているのでしょうか?

「地獄があれば救われる。」とは、かつて僕が親しい友人によく嘯いていた僕なりの格言でした。地獄の存在は、最初に光あれに始まりそれを設定した絶対者の存在を暗に示すものであり、どんな拷問を受けようとも、そこに何らかの意図(それが絶対者が善であれ悪であったとしても)があっての地獄のほうが、全くの虚無よりはましなのではないかと、かつての僕は考えていました。

「この世界で人間も含めた自然、つまり万物が織りなす現象全ての向こう、うっすらと虚無の奥行きを感じる」

あまり言いたくなかったのですが、近年はこの傾向がいよいよ強くなってきて、実際、精神的不調に悩まされたりしていました。

しかし、これはまた日を改めて別記しますが、今の僕は『超越』というものを改めて志向することで、この虚無との腐れ縁にケリをつけられたような気がしています。

さて、長くなってしまったので纏めに入りますが、結局は僕の問いなど採るに足らないもので、世間の大多数の人は結局は自分の経験と知識でこの世を認識するしかないのです。でもそれは悪い事でも虚しい事でも決してないのです。

先程述べた僕が昔から疑問に思っていたことを踏まえて、今僕なりに皆さんに提言したいのは、「圧倒的な混沌の中で、私は積極的にそれを選択しているのですよ」、という主張を皆さんに自覚してもらいたいということです。

もっとざっくり言うと、あなた方の信念の度合いと同じぐらいの情熱をもって、あなた方とは全く異なる信念に身を捧げている人もいるのですよ、という当たり前の事実を再確認していただきたいというのが僕のささやかな主張です。

実は今僕は無謀にも、ある小説の翻訳(英語から日本語)に取り組んでいます。そこにちょうどタイムリーな格言がありましたので、この記事の最後に、僕なりに意訳したものを引用させていただきます。

南無

Before believing, we choose what we want to believe. Then we test it for true.

(真実という量りにかけたうえで、何を信じたいのか選択したもの。我々はそれを信仰と呼んでいるのである。)


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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