訂正です。
最新号の寺報第8号の表紙、『献茶彼岸会のご報告』の記事の最後の段落で、
「~喫茶来の意味が少しわかった気がしました。」
とありますが正しくは喫茶去です、大変お恥ずかしい限りで失礼致しました。
どうやら私もボロが出てきたようです。(笑)
実は昨晩、寺報にも登場いただいた北添紫光さんのブログを読んでいて、ふと感銘を受け「喫茶去」のワードを含むコメントを入れた時に、ビビッと違和感を感じたことで気がついた次第です。(笑)
まぁ、そもそも調子に乗って安易に禅語を引用してしまった私が軽薄だったのです。
ということで自省の意味を込めて、『喫茶去』という禅語の意味を私なりに確認しておきたいと思います。
9世紀の中国で活躍された趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)が弟子と交わした多くの問答の中に『喫茶去』は登場します。
喫茶去、訳すと「まぁ一服おあがり。」の意味になります。
去は強調の助詞ですので去っていくという意味は基本的にはありません。
問答の内容としては、趙州禅師は初対面が来ても常連の人が来ても「喫茶去」と言ってお茶をもてなしている、それを何故なのかと問われると、返ってきたのはまたもや「喫茶去」。
これを深く解釈すれば存在論というアカデミックな次元の話にできそうですが、恐らく、ややこしい概念とか横文字なんかを持ち出してくると「喝!」とか言われそうです。(笑)
下手に文字を並べるよりも、以下に引用させていただく紫光さんのブログの一文がまさに喫茶去の核心を顕していると思います。
今日はお客さんとしみじみと時の流れを味わう瞬間があってそんな時はやっててよかったと思います、
この「お客さんとしみじみと時の流れを味わう瞬間」、これこそが喫茶去、まぁ一服の真髄じゃないでしょうか?
と、漢字を間違ってた門外漢の坊主が申しております。(笑)
(タイトルの画像は日本の沙羅双樹とも言われるナツツバキです。檀家様が供えてくれました。)
「喫茶去」の「去」は本当に助字なのでしょうか。
「欲向東巌去」 という言葉もあるように「ゆく」「ゆけ」と読むのが素直な気がいたします。
喫茶去
私はこう読みました。
求める答えは自らの中(うち)にある。
永遠なる清寂はあらためて求めるまでもなく、もとより自らの中(うち)にある。
大事なことはそれを確信し、日々の暮らしの中にあって己事究明に努め、
ひたすら真っ正直に生きることである。
このことを措いて仏の道、禅の道なるものは無い。
趙州は「茶でも飲んでゆかれよ。(喫茶去)」という言葉で寺を訪ねた修行僧に説いている。
「茶でも飲んでゆかれよ。(喫茶去)」は修行僧が問わんとする「如何なるか是れ仏」という疑問に答えたものだ。
そうであればこそ誰に対しても同じ言葉、同じ対応になるのであって、
「差別の無い接待」云々などととらえているようでは院主と同じではないか。
趙州、「院主、わしは接待などしてはおらぬ。いって茶でも飲んで来られよ。」
修行者たるもの森羅万象ことごとく師とすべきである。
ましてや教えを乞うて訪ねた師家の前にあっては
その一挙手一投足、発する言葉の端々に全神経を集中して法を聴くべきである。
座して兀兀と茶を戴いておるようなことでは
「接待に差別があってはならない。」と埒もない受け止めをするのがせいぜいである。
「茶でも飲んでゆかれよ。(喫茶去)」は修行僧が問わんとする「如何なるか是れ仏。」という疑問に答えたものだ。
決して接待の心得を説いているのではない。
※ 己事究明: 己事とは自分のこと。究明とは真理、真相などを徹底的に追究し、明らかにすること。
自分とは何か、何を求めているのか、そして、その答えから外れる方向へ歩いていないか
確認し続けること。
師問二新到、上座曾到此間否。云、不曾到。師云、喫茶去。
又問那一人、曾到此間否。云、曾到。師云、喫茶去。
院主問、和尚、不曾到、教伊喫茶去即且置。曾到、為什麼教伊喫茶去。
師云、院主。院主應諾。師云、喫茶去。 (五灯会元『趙州録』459)
新到(しんとう): 新しくやってきた者。場所の設定が寺であるから「教えを乞うてやってきた修行僧」の意。
上座(じょうざ): 僧に対する尊称。ここでは対面している僧に向けられた言葉であるから「御坊」と訳す。
此間(すかん): 一定の面積をもった空間。ここでは「ここ」と訳す。
院主(いんじゅ): 寺院の事務長にあたる僧。
應諾(おうだく): 他人の依頼や申し入れを引き受けること。承諾。ここでは「返事した」の意。
師、二(ふた)りの新到に問う、「上座、曾て此間(すかん)に到るや。」
云く、「曾て到らず。」
師云く、「茶を喫し去れ。」
又た那の一人に問う。「曾て此間(すかん)に到るや。」
云く、「曾て到る。」
師云く、「茶を喫し去れ。」
院主問う。「和尚、曾て到らざるに、伊(かれ)をして茶を喫し去らしむるは、即ち且(しば)らく置く。
曾て到るに、什麼(なん)としてか伊(かれ)をして茶を喫し去らしむる。」
師云く、「院主。」
院主応諾す。
師云く、「茶を喫し去れ。」
師は二人の新到の僧にたずねた。
「御坊、あなたは前にもここに来たことがおありか。」
僧、「来たことはありません。」
師、「茶でも飲んでゆかれよ。」
またもう一人にたずねた。
「前にもここに来たことがおありか。」
僧、「来たことがあります。」
師、「茶でも飲んでゆかれよ。」
院主がたずねた。
「和尚、前に来たことがない者に『茶でも飲んでゆかれよ。』とおっしゃるのはともかくとして、
前に来たことがある者になぜ『茶でも飲んでゆかれよ。』とおっしゃるのですか。」
師、「院主。」
院主は「はい。」と返事をした。
師、「茶でも飲んで来られよ。」
僧、「如何なるか是れ仏。」
趙州、「お教えすることなど何もござらん。 ま、茶でも飲んでゆきなされ。」
説食終不飽
説衣不免寒
飽喫須是飯
着衣方免寒
不解審思量
只道求佛難
廻心即是佛
莫向外頭看
本来無一物
亦無塵可拂
若能了達此
不用座兀兀
ご丁寧に詳解して下さり、有難うございます。
実は、『去』の解釈については一般教養書にあった喫茶去の解説を受け売りでここに書いております。
ですので、大変お恥ずかしいことに、『去』が助詞である根拠を私なりに説明することができません。
漢語に関しての高い見識をお持ちの方であられるとお見受けしますが、閑雲様のお求めになる水準の返答ができず、申し訳ない限りです。
『喫茶去』そのものの解釈についても、閑雲さんの読みが正当な気がします。(私が判断することではなおのですが)
私なりの解釈を加えさせていただくと、私はこの問答が、人間の関係性というものが、実は変換してみたり組み換えてみたりできるものではないことを示唆しているように感じました。
ブッダもイエスもその言行録的なものの多くに、現代人でも理解できる一般性を感じることができますが、一方、あまりにも当たり前のことを繰り返している内容も多いのが事実です。
後者に関しては、おそらくその言葉の浸透性が一般化できない、ブッダやイエスとその弟子達との間だけで機能した生(ナマ)の言葉だったのではないかと思います。
というわけで、仰る通り、喫茶去とは接待の作法のことでは決してないのですが、人間の関係性を突き詰めていった上で、一般化できない生の言葉とは、もう喫茶去しかないのではないか?、という存在論的な解釈を私はしています。