映画『沈黙』から身につまされて

話題のマーティン・スコセッシ監督の最新作『沈黙 -サイレンス-』を映画館で観てきました。
http://chinmoku.jp/

自らもカトリックのクリスチャンであった遠藤周作さんの小説を、忠実に映像化した作品と言われていて、俳優のほとんどを日本人が占める作品を撮ったという評判は、以前から耳にしていました。

普段私は、映画館には滅多に行くことはありませんし、映画ツウでもありません。
まして、かの遠藤周作さんの小説は一つも読んだことがありません。

そんな私が、今から映画の感想についてタラタラと言葉を繋げていくのは、本来恥ずべき行為に他ならないわけですが、そこを敢えて、
「この映画には、宗教に縁のある人間なら誰しもが学べることがあるに違いない。」
という私の直感を信じて、自分が考えたことをここに残しておきたいと思います。

 

その日は母に子供たちの面倒を任せ、久しぶりに私たち夫婦2人だけで出かけることになり、
「2人で映画観に行くって久しぶりやねぇ~。(^^)/」
と、和やかにも浮足立つような、映画館に向かう私と嫁さん。自然と夫婦の会話も弾みます。

しかし、待ち受ける映画はなんと、『沈黙』・・・。(笑)

もちらん嫁さんには事前に、
「暗い映画やでぇ・・・」、「難しい映画やでぇ・・・」、「長い映画やでぇ・・・」、
云々、最低限の予備知識は伝えてありましたが、私の予想を上回るこれでもかと畳み掛けてくるような拷問シーンの数々・・・。
私は、となりに座る嫁さんが途中で席を立ってしまう可能性を恐れ、内心ヒヤヒヤしていました。(笑)

 

すみません。ここからは真面目な話ですが、
私より予備知識の少ない嫁さんでも映画の世界に没入し、最後まで主人公のロドリゴ神父の行く末を案じながら、題名でもあり、また作品の主題でもある『沈黙』に向き合あってくれていました。

当初は織田信長に引き続き、キリスト教に寛容であった豊臣政権も、1587年バテレン追放令以後は厳しく国内のキリシタンを弾圧していきます。
さらに、10年後には秀吉直々の令によって、日本人20名・欧州人6名の計26名のキリシタンが磔の刑に処されます。
この処刑は後世、『26聖人の殉教』として事実上国内初の公式な弾圧として、時のローマ法王の耳にも届いています。

映画の時代設定は、まさにその直後の17世紀初頭。舞台は五島列島と長崎。
当時のその地域は国内で最も弾圧が厳しく、キリスト教の信仰を貫くことは死を意味しました。
同胞や家族を人質にとられ、身を震わせながらも踏絵に足を乗せなければならなかった人たち。
さらには、見かけだけではなく自らの魂までをも捻じ曲げられ、棄教という選択肢を選ぶしかなかった宣教師の絶望・・・。

私の記憶では、音楽らしい音楽はほぼ皆無であったこの映画は、暴力の描写が半端なくリアルで、北野武監督の『hana-bi』を彷彿とさせる、怨恨や情念の無い、因果や制度によって躊躇なく執行される渇いた暴力とも言うべきものが徹底して描写されていました。

 

さて、仏教徒である私は、この映画からいったい何を学べるのか?
当初は確信していたはずの私の直感が揺らぎます。

特に私の目にとまったキャスト、塚本晋也監督が演じたモキチは、一末端のキリシタンでありながらその霊性は崇敬に値するもので、まさに殉教徒の鑑のような存在として描かれていました。

その壮絶な死を遂げたモキチが最後まで捨てなかった『信仰』。
それがある故の弾圧であり、またそれを捨てることが棄教なわけですが、ここで我が身を振り返り、もしも映画『沈黙』の宗教が仏教であったなら、そして私がモキチの立場であったならば、果たして仏教徒の殉教とは在り得るのか・・・。

それを想像したとき、必然的に仏教に於いての『信仰』とは何なのか、それを問はざるを得なくなります。キリシタン達の殉教を身につまされて考えた時、正直に言うと、あそこまでの『信仰』が私自身にはないような気がしてしまいます。

いや、ただの卑しい言い訳として言うならば、キリスト教の信仰仏教の信仰同列に見ることができるのか?、という思いが私にはあります。

今、出典が定かに思い出せないのですが、仏教のある原始経典には次のようなブッダの御言葉があります。

例えるなら、私の教えとは、あなたにとって困難という濁流を対岸へと渡る為のイカダのようなものだ。
そして、あたながそのイカダで濁流を渡り終えると、その先には砂漠が待ち受けていたとしよう。
あなたはその時どうするだろうか?あなたはこんな風に考えるだろうか?
「ブッダの教えであるイカダは、私を困難から救ってくれた有難いものだ。わたしはそれに感謝して、この先の見えない砂漠をイカダを担いで歩くことにしよう。」
否、そんな考えはやめるべきである。
砂漠を前にして、もはや不要となったイカダは、捨て去りなさい。

どうでしょうか。
私は仏教と他の宗教を比べる時に、よく上の逸話を引用します。
あくまでも私見なのですが、これこそが仏教の特色であり、他の宗教にはなかなか見られない点であると考えます。

上の言葉を踏まえて、ブッダの教えを信仰と置き換えて考えるならば、そもそも仏教に於いての『信仰』とは何なのか?、という自問が湧いてきます

仏教では『南無』というざっくり言えば『帰依する』という概念は広く認められており、それが信仰という言葉に置き換えることができるかと思います。
話がややこしくならないように、簡潔に考えたいのですが、そもそもキリスト教の背景にはユダヤ教があり、そのユダヤ教は律法によって人々が規定されるという構造を持っています。つまり、神によって人が規定される構造とも言えます。

対して仏教ですが、仏教での信仰とも言える帰依のアクションは、帰依する者から三宝(仏・法・僧)へのあくまでも敬いの念や行為であり、そこにはキリスト教に見られる唯一絶対神から規定されるというような構造がそもそも無いのです。

仏教の基本信条はとも言うべきものは、ズバリ因果応報。
善い原因を為せば善い結果を生みやすいし、悪い原因は悪い結果を招きやすい、そしたらちょっとでも善いことをしてみませんか?という実践を促す教えなので、あくまでその実践は個人の裁量に委ねられます。

良く言えば臨機応変とも言える仏教のこの構造が、一神教の側から仏教を見た時、しばしば仏教は宗教ではない指摘される点なのです。
事実、宗教という言葉は明治時代に作られたものですし、宗教を英訳したreligionも繋ぐという意味があり、つまり神と人間が結ばれたものという前提がすでに含まれています。

 

映画の中で、殺されていく多くのキリシタンは全く美化されておらず、無情にも神の『沈黙』は続きます。
しかし、終盤にさしかかり、いよいよ主人公のロドリゴ神父に踏絵の試練が差し迫った時、ついに沈黙は破られ、恐らく原作者の遠藤周作さんが最も伝えたかったであろう言葉が語られるのですが・・・。
さすがに、その言葉には強く胸を打たれました。正直泣きました。

しかし、その語られる言葉は、あくまで遠藤周作さんの個人的なイエスへの想いが裏打ちされたものらしく、小説が話題になった当初は本家カトリック教会からの批判も受けたようです。
何か、とてつもない欠損、変わりようもない悲劇の事実、耐え難い苦しみ、それらこの世に確実にある嘆きに苛まれている人々
映画の登場人物たちは、きっとそれらの人々を暗示しています。

そんな光の当たらない人々の事を放ってはおけなかった遠藤周作さんの言葉に、泣きました。

また、僕の好きな窪塚洋介さん演じるキチジローの存在には、何か重大なメッセージが託されていると思ったのですが、この先はさすがに、門外漢の私ではミスリードをおこしそうなので、敢えて語らずに置きます。

 

最後に、この自分の雑記のせいで、仏教が弱々しいものであるという印象を皆さんに与えてはいけないので、ブッダの十代弟子の一人であったフルナの言葉を紹介しておきます。
ブッダとフルナの問答なのですが、キリスト教に負けず、仏教にもここまで激しい信仰を持った仏祖が実在されました。

「世尊よ、私は故郷の国に帰って布教に励みたいと思います。」

「フルナよ、そなたの故郷は、気が荒く粗暴な人が多いと聞く。もしそんな人々がそなたを罵り嘲るようなことがあれば、どうするつもりか?」

「世尊よ、その時は彼らはいい人だと考えます。手や棒で私を殴ったりしないのですから。」

「では、手や棒で彼らが殴ってきたらどうするか?」

「世尊よ、その時は彼らはいい人だと考えます。刀で私を傷つけないのですから。」

「では、刀で彼らが切りつけてきたらどうするか?」

「世尊よ、その時は彼らはいい人だと考えます。私を殺しはしないのですから。」

「では、彼らがそなたを殺そうとしてきたらどうするか?」

「世尊よ、その時は彼らはいい人だと考えます。この世の苦しみから私を解放してくれるのですから。」

 

南無


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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