どこから来てどこへ行くのか?

久しぶりに日々思っている事を長々と書いてみます。

唐突ですがそれは『思考原理』の話についてです。

ネットのコトバンクによると「論理的な思考において欠くことのできない根本的な法則。普通、同一律・矛盾律・排中律・充足理由律の四つをさす。」とありますが、私が独りよがりに名付けている思考原理とは、
『万国の人間に共通した潜在意識からの思考』とも言うべきものです。

具体的な例を出すと、以下のようになります。

1.神道の禊

2.キリスト教のバプテスマ

3.仏教の沐浴

さて、この1から3に共通しているものは何でしょうか?

ズバリそれは『川』です。

先ず1から3を簡単に説明しておくと、神道の禊とは水垢離とも呼ばれその字の如く水によって垢を離すというつまり自らを清める行為です。今でも神社に普通にお参りすると拝殿に向かう道順の途中で手水が設けられていますが、あれこそが禊を簡略化したものであり、本来は聖域に入る前には川の中で白装束に身を纏い体全体を清めるのが習わしのようで、現に我々本山派の修験者も大峰奥駈修行(逆峰)の際には吉野川で水垢離をしてから山に伏して入ります。

次に、キリスト教のバプテスマとは要するに『洗礼』のことであり、敬虔なクリスチャンが小さなプールやバスタブの中で一旦体を沈められすぐに浮き上がらせてもらい神の祝福を受けるという、キリスト教の信仰の道に於いてさらに次のステージへと進む為の重要な儀式です。
宗派によって捉え方は違うようですが、本来はイエス誕生に遡ってユダヤ民族に伝えられる儀式で、イエスの親戚にあたるバプテスマのヨハネによって大々的に取り入れられたようで、これも本来はかつてのヨルダン川の中で神道の禊と同じく白い装束を着て行われていたようです。

最後に仏教の沐浴ですが、これは仏教に留まらず古くインドの精神文化に根付く風習で、皆さんもテレビなどで一度はガンジズ河の沐浴風景を目にしたことや聞いたことがおありかと思います。
お釈迦様は6年間の苦行の後ガンジズ河の支流のネーランジャラ―川の中で沐浴し6年間の垢を洗い浄め、対岸に亘って大きな樹の下で瞑想をして悟りを開かれたと伝えられ、その大樹は後世日本では菩提樹と呼ばれています。

さて、この3つを踏まえて皆さんはどう思われますか?

これらは単なる偶然かそれとも・・・?

正直に言うと、私の考えは単純で、

「そりゃ、汚れたら川で体を洗うでしょうよ!(笑)」

という至って真面目にシンプルなものです。

それに世界四大文明と呼ばれているメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明も全てそれぞれの大河の恵みを受けて(具体的には灌漑農法を確立して)築かれたことからも、やはり『川』と人々の営みというのは切っても切り離せず、その川の存在が言語や文化や場所の違いを越えてアプリオリに人間の思考に組み込まれていて、それ故に宗教の違いを越えても尚共通してその中に無意識に儀式化され同時に共通の意味付けもなされているのだと考えられます。

また、『三途の川』の話は古き日本人の死生観の一つとしてあまりにも有名ですが、おそらくこれも『境界』という概念と川の概念が同じに捉えられるという思考原理が人類共通にあって、そこへ『お釈迦様が川で沐浴をして彼岸に渡り、悟りを開かれた』という仏教の逸話が加わり、後世悟りの世界は死後の世界として単純化され、そこからあの世とこの世の間の境界線として日本人に広く馴染んだものと考えられます。

また、バベルの塔や護摩の炎にスヴァーハー(娑婆訶)と言いながら供物を投じて煙を昇らすことなどから見受けられる『天』に超越者を見出す思考や、反対に黄泉平坂やオシリスの神など『地』を死や再生の象徴として見出す思考も、やはり天は当たり前に晴れや雨など先史の時代は死活問題とも言える天候の舞台であり、また地はあらゆる生物がバクテリアによって分解されてやがては豊穣をもたらす大地の一部となるというこれも生物にとってなくてはならない現象の場で、そこから浄不浄の区別も生まれてきたのだと思います。

そして、とてもタイムリーにこの記事を書く数時間前に視た録画されたテレビ番組から得た情報では、卑弥呼の墓と思しき古墳からは八つの葉が象られた鏡が納められていて、それは伊勢神宮の八咫鏡とも一致しているようです。

そしてその鏡は太陽を反射させ太陽そのものを象徴する非常に重要な鏡であったそうです。

八つの葉、太陽、とくればもう密教に造詣のある人ならばピンとくるのが、胎蔵性曼荼羅の中央に描かれている大日如来を中心とした中台八葉院です。
しかも大日如来は宇宙万物の創造主であり、逆に言うと森羅万象は大日如来の顕現であると捉えるのが密教の特徴なのですが、同時に太陽は大日如来の象徴と言われることもあります。

そこから飛躍して考えると、やはり精緻な論理や細々とした背景は別として、昔の人間に認識可能で最も超越した存在は太陽であり、それを象形化するとやはりあのお日様サンサンの太陽のマークに似た八つの葉になったのではないでしょうか?

また、その八つの葉の一つを切り出すとそれは宝珠の形に見えて・・・と、この話をするとキリが無いのですが個人的興味は尽きません。

我々はどこから来てどこへ行くのでしょうか・・・?

最後に念押しになりますが、ここで私が述べている『思考原理』の意味付けはあくまで上のような私の独断と偏見によるものであり、広く世の中に通用するものでは全くありませんのであしからず。(^^)/

南無


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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