犬の供養

例のナギですが現在はご覧のようになっています。

まずは根になる部分が芽ぶいて地面にしっかり潜っていきます。

次に種が持ち上げれて、そこから葉っぱになる部分が形成され、いよいよ若木らしくなってきました。20160710_074306341_iOS

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これからの夏の照り付けから若葉を守る為、農作業用遮光ネット(遮光率50ぐらい?)でカヴァーしました。

このひと夏でどこまで大きくなるか楽しみです。

 

話は変わりますが、昨日、本堂にてある犬の追善供養をさせていただきました。

その犬はある飼い主様に8年間大事に飼われていたところを、突然の交通事故で息をひきとりました。
今回の施主である飼い主様から電話で相談を受け、我が子のように可愛がっていた愛犬との突然の死別による心の痛みが少しでも和らぐのなら・・・、という趣旨で供養を引き受けました。
ちょうど昨日がまる一年の命日に当たりました。

本堂の不動明王御前に愛犬の遺影を飾り、飼い主様に焼香を捧げてもらい、合掌を以ってお祈りしていただく中で、私は六根清浄の大祓いを読誦しました。

お堂の中で畜生の供養などけしからんと思われる方、また一年もたっているのにまだ供養などをすると未練が残って犬が成仏できないのでは?などと思われる方、どちらもいらっしゃると思いますが、私はそうは考えません。
その理由を以下に述べます。

そもそも大乗仏教諸派が掲げる根本的な思想として仏性(ブッショウ)があります。これは字の如く仏の性質、つまり仏のカケラとも言うべきものです。
有名な仏教用語として『一切衆生悉有仏性』、さらに涅槃経の中にも『天魔外道皆仏性』というものがあります。その意味はこの世に生きとし生けるもの全てに仏性がり、人間の人智を超えた存在や仏教の道に外れた存在の中にも仏性は有るとする、非常に抽象度の高い思想です。

つまり宇宙のすべてのものには仏のカケラが宿っている。という思想です。

そしてここでの、肝心のその『仏』とは、本来の意味『悟った人=ブッダ』という概念を超えた、慈悲と理智の両面を併せ持った究極的なイデアを意味し、密教においてはこれが大日如来であり、華厳経学においては毘盧遮那仏(奈良東大寺の大仏)に象徴されています。

また、その大日如来の仏性の現れ方として、先の慈悲によるものを胎蔵性、理智によるものを金剛界として、それぞれが曼荼羅で表現されています。

聞き慣れない仏教用語を羅列してしまいましたが、要するに究極の汎神論的な一元論と理解してください。
あらゆる生命の中に仏の慈悲と理智を見出す。その観想を以って己の存在を突き詰めていった時、最後には自我と仏は不二のものとなり、この世に溢れる意識や生命は本来一つである悟る境地を体感すること。それが仏性を開ききった状態であると私は考えています。

その悟りへの可能性とも言うべきものを我々全ての生命は本来具えているのです。
その悟りとはなにも厳しい修行や瞑想や学習によって得られるものにとどまらず、何気ない道端に堂々と咲き誇る雑草の花の発色の中や、大空を羽ばたく鳥の軌跡の中に見出され、また我が子を守る為には自らの命すら厭わない母親の愛であったり、時には職人の技のまさに妙とも言える勘であったりもします。

ですから、巷でよく耳にする「人間の霊のステージの方が上で、犬は畜生だからそれより下で卑しい。」というような考えには、わたしは到底賛同できません。

私の読経は、8年間心を通い合わせた飼い主様と愛犬の慈悲によって結ばれた仏性の共鳴とも呼べる絆に対して向けられたものであり、その趣旨に於いては、何とかの耳に念仏などという異論は挟む余地が無いはずです。

壮大なことを語ってしまいましたが、詰まる所は「家族の一員ともいえる犬が亡くなったのでお経を上げて下さい。」 と言われれば、ただ単純にその悲しみを察して僧侶として出来ることをするだけ・・・。そんなふうに私は思います。

南無。


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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