虚無の向こうには超越が・・・

――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処どこ』というもののない闇に微かな戦慄せんりつを感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――
その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議なみさきのようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色あいいろに煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。

『蒼穹』 梶井基次郎 (青空文庫より転載)

以前、Facebook上でのとあるやり取りでチラッと語ったことなのですが、僕は梶井基次郎氏に一方的な親近感を人一倍抱いています。
生い立ちや趣向なども全く違い、且つ偉大な先人でもある昭和初期の一文豪に対して、後世の僕なんかが勝手に親近感など畏れ多い事百も承知なのですが、僕は氏の名作『蒼穹』を読んだ時、正直、仏典や聖書の金言以上に、心の底から「救われる」という感覚を覚えました。

しかし、僕が「救われる」と感じた、その感慨は一体何によってもたらされたのかと言えば、それは他でもない『虚無』なのでした。

この逆説的な事実は、ジャン・ジュネの泥棒日記の序説にある「読者との共犯関係」という構造にも似ています。
言うなれば、あるべきことが望まれる楽園や涅槃に導かれることや、又は本当の自分などと言う幻想を焚きつけられて有頂天に舞い上がるといったことの対極にある、やむを得ない諦めとでも言うような一種の共感、言い換えれば、善でも悪でもなく「この人も僕と同じなのだ」というまるで寄り添われたかのような危険な安心とでも言うようなもの。(ジュネはそれを美を形容する事に託したのだと思うのですが)

自分でも何かが壊れている故にそのような安心にしかすがることができないのだと思うのですが、とにかく自分が生まれる半世紀以上も前に自分と同じような経験(いや、正確には僕が氏と同じような経験をしたからなのかもしれないのですが)をした人がいたのだという事実(たとえそれが小説の中の表現であったとしても)が僕にとっては人生を左右する大きな出来事だったのでした。

虚無によって安心を得るというこの屈折した身構え方は、この世というものに対して自意識過剰で存在するしか能のないちっぽけな自分だからこそ成し得る最強の防御であり、真に愚かな臆病者のすることだとは自分でもわかっているのですが、そのことをこのような場で不特定多数の人々に突っ込まれる前に先に言ってしまっておこうというこの行為自体も、単純に僕が愚かであることの証明でもあります。

ひょっとしたら僕だけがぶっちゃけているだけで、本当は大多数の人々が僕と同じような虚無を隠しながら強かに生きておられるのかもしれません。
これは本当にたった今閃いた事なのですが、もしそうだとしたならば、僕は現代のネット上や身近な交友関係の中に幾人もの梶井基次郎を見出すことができるのでしょうか?
強いて言えば、僕はもっと強く生きることができるのでしょうか?
倉沢よしえさん作の『公園』という歌の歌詞に「頑張らなくちゃって思えないくらい頑張れたら楽なのにね~♪」という表現がありますが、正にこの僕も今はそんな心境です。

僕がこの世に依って立つ為の相棒とも言える気の置けない虚無。
しかし、実は数年前からこの虚無が自分の中で対処不能なほど膨れ上がって来て、正に檸檬の序文にあるような「えたいの知れない不吉な塊」となって僕の心を始終えつける状況になってきていました。

目下現在は休戦状態にあると言えるのですが、そこから僕がもがき苦しんで辿り着いた暫定的な希望こそが

『超越』です。

やっぱりまだ上手く言葉にできないのですが、僕の内外に存在する虚無には超越が含まれている気が何となくしてきています。簡単に言うならば諸行無常のようなメタな変化とでも言えるような、なにかしらが機縁となって気持ちだけでも楽になれるような・・・。

手放し? Let it be? なんて、案外凡庸な着地点が待ち受けているのでしょうか?(笑)


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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