8月の護摩も終わりました

多くの学生さんが憂鬱になる8月の終わりですが、今月も柱源護摩が終わりました。

有難い事に、ヨーガ体操に興味を持って来られる方が少しづつ定着し、この日の人数も10人を超えていました。

いざ、点火となるとやはり煙とススが堂内を舞いますので、エアコンは切らざるをえません。
窓を全開にしても炎の暑さにかなうわけもなく、地味に暑い夏の護摩ですが、参加者皆さんが炎に向けられる真剣な眼差しを、私も視界の中に感じます。20160828_013615238_iOS

ヨーガが『結びつける』という言葉から来ているということで、午前の護摩の前に『不二』についての簡単な法話をしたのですが、多分かなり滑っていたと思います。(笑)
不二とは字の如く『二つではなく本来一つ』という意味ですが、大乗仏教の思想の中で、この不二はあらゆる場面で登場します。

自他不二、身土不二、修証不二などなどたくさんありますが、この柱源護摩の唱文の中にも『高下大小本不二』というものがあります。
「高いも低いも、大きいも小さいも、本来仏の世界では一つのものだよ。」という意味ですが、理解するには簡単なようでやはり難しいものです。

我々の世界は言わば比較相対の世界です。一方仏の世界つまり悟りの世界は唯一絶対の世界と言えるでしょう。
しかし、この『不二』とはその二項の比較すらをも超える高い抽象度の思想です。

その抽象度で悟りを捉えると、もはやそこに何かが何かを悟るという構図は無く、ただ『   』なのだ(敢えて空白)という直感や体感があるだけです。

けれどもその空白部分に文字が入っていないと落ち着かず、ひたすら探し求めて問いかけを続けてしまうのが人間の煩悩と言えるでしょう。

例えを用いるならば、生まれてから一度も泳いだことの無い人、念を押すと泳ぐという行為すら知らない人は、水の中を移動するという概念をどう捉えるのでしょうか?
また空を飛ぶものを見たことが無い人に、飛ぶという概念が理解できるでしょうか?
古今東西世の中に溢れる、言説や教理などは全てこれら空白の概念に対しての想定でしかありません。

我々は今までの経験や他のものを観察することから類推を重ねて未知のものを想定しています。

不二の思想の第一歩は、まず我々が限定されていることに気づこうとすることから始まります。
自分から見て綺麗とか汚いとか古いとか新しいとかの認知から、よりメタな認知を志向することが不二の実践とも言えます。

 

と、物想いの秋を前にしてまた小難しい事を書いてしまいましたが、
前号の寺報でお伝えした中央アジア原産のブドウその名もベージャーガン、畑山果樹園さんに立ち寄ったところなんと初物を頂いてしまいました!

さっそく本堂にお供えさせていただきました。
お供えするときにポロッと房から落ちた一粒を賞味させてもらいましたが、大変な美味でした。
月並みな言葉ですが、ロマンを感じる爽やかな甘みでした。20160829_015433647_iOS

もうじき直販所にも並ぶと思いますが、希少ですのでどうぞお早めに!

 


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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