仏教勉強会

有志の方4名と月一回開いていた実験的な仏教勉強会ですが、昨日一区切りつきました。
振り返ると約2年半に亘り、御釈迦様誕生以前のインドから中国仏教の唐の時代までの仏教史を辿ってきました。
これからは日本仏教の領域に入る為、住職の更なるインプットの期間という名目で約1年程のお休みをいただいて、また再開したいと考えています。

実は私は仏教というものを公的な教育機関で学んでおりません。学歴は高卒で、ただ京都の総本山でたった2年間の学僧修行を経験しただけです。
修行時代、基礎的な仏教学は大先輩の僧侶から直接指導を受けましたが、あくまでも個人的な授業であり、2時間程の枠が多くても月に3回ぐらいしかありませんでした。
総本山に住み込みでいるという恩恵を、当時はよく理解できていませんでしたので、夜な夜な自発的に勉強するというモチベーションも無く、ただ毎日のお勤めと掃除、様々な行事の準備に明け暮れておりました。

そんな学僧という最下座の私ではありましたが、宗派の中核を担う組織の一員という自負が少なからずありました。
また、何らかの責任の所在はすべて先輩任せという有難い処遇でありましたので、勿論厳しい上下関係ではありながらも、ある意味では伸び伸びとやらせてもらえました。

ところが、高知に帰って気づいたのが、『私は単なる一地方寺院の住職に過ぎない』ということでした。
檀家様から見た私は、『我が家のご先祖様にお経をあげてくれる坊さん』という認識が第一であり、どこそこで修行したとか宗派の教えがどうこう等は、良くて二の次三の次なのでした。

そこで私が痛感したのが、現代仏教の必然性から考え直さなければならないほどの、寺側と檀家側の意識の食い違いでした。
それは、昨今しきりに叫ばれている現代人の信仰心や供養の気持ちの低下では無くて、あくまでも仏教的な信仰心を興させる生きた仏法が弱くなったことと、供養の形式が多様化したことにある、と私は勝手な分析をしています。

既成仏教の権威のパラダイムが崩れ、誰もが今まで当たり前に認めてきた『有り難さ』に明らかな揺らぎが生じています。
月並みな「開祖のありがたい教が・・・本尊のありがたい御利益が・・・」という説法を武器に、いざ現実の暮らしに立ち向かおうとも、死別・病気・介護・家庭の不和・仕事の激務・社会不安、等それらの強敵たちには、もはやその武器のほとんどが何ら用を為さない長物になり果てているという実感を、私以外にも多くの方々が感じているはずです。

その現状を少しでも打開すべく始めたのがこの勉強会です。
上に述べた通り、学歴のない私は本来ならば他人に仏教を教えれる立場ではないかもしれません。しかし、現代という時代は、個人が何らかの目的意識を持て情報を収集し、それを整理して学習してまたアウトプットするという一連の作業にはかつてないほど恵まれた時代でありますし、インターネットと流通の利便性を生かして知識の収集は益々はかどります。

例えば、全国のtsutayaに並んでいる仏教書的な一般啓蒙書を幾つか読むだけで、基本的な信仰心を育む土壌作りは確実にできる時代に私たちは生きています。
大学院で研究された高度な学術が、一般教養レベルに還元され社会の知識レベルの底上げを図るという現代に於いて、誰もが学問にアクセスする権利があり、可能性もあります。
然しながら、一素人が組み立てる知識体系には極端な偏りが出たり、誤った認識を孕む危険性があることは十分承知の上です。時には客観的な専門家のアドバイスで修正していくことで、一個人がそれぞれの学習を深めることは可能であるはずです。

つまり、はっきり申し上げると私が作っている勉強会のテキストの背後にある知識は、誰もが巷で揃えることができる知識です。
でも私は一地方寺院の勉強会という趣旨に於いてはそれで良いと思っていますし、現在の有志の参加者の方にもそのことを了解してもらっています。
出来れば来年4月から地元の公民館などの場所を借りて、定期的に開催していくつもりです。

 

 


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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