戒律について改めて考える

カリフォルニア州で嗜好品としての大麻が解禁されたというニュースに敢えてコメントはしませんが、大麻解禁→法律→戒律、みたいな無理やりな流れで少し思う事を書き留めて置くことにしました。

正月ということもあって、久しぶりに地上波を見ていて偶然目に入ったのが上のテレビ画面です。

実のところ、普段の私は地上波のテレビ番組をほとんど視聴しません。ですから、テレビで流行っている事や話題の芸人さん、さらには芸能ゴシップなんかの類はネットのニュースで知ることが多いです。

世情にかかずらう記事は本来あまり書きたくないのですが、今回はどうしても書きたくなってしまったので、新年早々またまた長文になってしまいそうです。

まずはきっかけとなった発言を紹介します。
それは、芸人であるウーマンラッシュアワーの村本大輔さんが『朝まで生テレビ』に出演した際、
「敵を殺さないと自分が殺される状況に置かれたらどうするの?」
という問いかけに対して即答した次の言葉です。

「殺されます。」

ここから私の考えを述べていくわけですが、それはあくまでも上で紹介したやりとりを私の思考展開のきっかけとして切り取っただけであり、番組で交わされた議論をこの場でスピンオフするわけでも、村本大輔さんについて語るわけでも一切ないということを明言しておきます。

まず大前提として仏教には戒律があるわけで、得度という儀式を経て僧侶として活動している私も、この戒律の問題には関わらずにはおれません。

そもそも仏教に於いて、戒律という言葉は『戒め』と『規律』が合わさったものとして認識されています。

一見、戒めも規律も似たような意味に思えますが、実は全く趣が異なっていて、『戒』は自発的に守っていくこと、『律』は守らなければならないと規定されていることです。ですから『戒』が守れなくても原則的には罰則を受けることはありませんが、『律』を守れないと厳しく罰則を受けます。

余談になりますが、『お払い箱』という言葉の由来は、仏教教団内での合議制によって決められたこの『律』を守れなかった僧侶に、教団からの追放というペナルティを課した『parajika』(サンスクリット語)の音写「波羅夷(はらい)」から来ているという説もあります。

『律』に関して、我々の日常に照らし合わせると、法治国家日本には法律があるわけで、例えば自動車で制限速度を超えると交通違反で切符を切られて罰金、さらには免停という処分まで下る場合もあります。

一方、『戒』を具体的に考えると、そもそも道路標識や警察の取り締まりに関係なく、安全運転を心掛けて事故を起こさないようしようという自発的なものが『戒』に値するものになるかと思われます。

もっと砕けて考えると、『律』は気持ちが入っていなくても成立しますが、『戒』はそうはいきません。
また全てを拘束力のない『戒』にしてしまうといろいろと問題が起きそうで、やはり『律』があってこそ物事が上手く纏まりそうです。

さて、いよいよ本題です。

その仏教の戒律の中に、『僧侶の妻帯の禁止』があるのはあまりにも有名です。

妻帯の禁止は、それ以前に『不邪淫戒』というものがあり、それはズバリ性行為の禁止であり、相手が異性であれ同性であれもっと言うと自慰行為でさえ厳しく戒められるものでした。

しかし、一般の家庭を持つ在家の信者の場合には、夫婦間でのプラトニックな性行為のみは暗黙の了解で認められていました。

私が以前から引っかかっていたのが、この『僧侶の妻帯の禁止』の理由が、世間一般は勿論、現役の僧侶に於いてさえ深く認識されていないのではないか?、という疑問でした。

とは言いつつも、私もあっさりと妻帯し3人の子ども達までいる身の上ですので、自分を棚に上げているわけではなく、やはり破戒をしているその意味を深く認識しておきたいと思い、結婚以前から考えていたことを吐露したいと思います。

多くの人は、僧侶が妻帯することはつまり、僧侶がセックスの快楽に耽ることが宜しくないから、というふうに認識されていると思われます。

しかし、かつての仏教教団、さらに遡ればお釈迦様その人が、何故に僧侶の妻帯を戒めたのかとよく考えれば、恐らくその理由は、

『守るべきものを持つな』

それに尽きるのではないかと思われます。

一説によると、お釈迦様はご自分の故郷であるカピラヴァストゥの都がコーサラ国という大国の軍隊が侵攻して滅ぼされようとしている時、それを知っていながら敢えて断固として阻止しようとはなさらなかったと言われています。

また十大弟子の中で舎利弗に並ぶ高弟として有名な目連尊者も、盗賊によって凄惨なリンチを受けて自らが殺害されるのをわかっていながら、それを回避することも抵抗することもなく受け入れられたと言われています。

不殺生の戒は私が受けた得度でも一番最初に確認された戒でした。

なんとしても自らを殺害しようとしている他者に対して、それを阻む為にはその他者を殺害するしかないという究極の状況。その場で不殺生の戒を貫くには自らの死もやむを得ない。

仏教徒、中でも僧侶は、本来ならばここまでの覚悟がなければならないと、おそらく原始仏教の時代はそうだったのだと思われます。

だからこそ、セックス云々という次元の低い話では無くて、
僧侶が家族を持ったならば、その家族が殺害されるという状況に於いて、僧侶を貫くことはできない。なぜなら家族は守るべきものであるから・・・。

という論理とヒューマニティが根底にあるからこその『僧侶の妻帯の禁止』なのです。

じゃあ、私自身はどうなのか!?

と問われれば、私は、

「殺されます。」とは死んでも言いません

仏教がどれだけ高尚なヒューマニティを掲げようとも、全てを破壊しようとする衝動のようなものを持った人間はこの世に必ずいます。

仏教の根本思想は、悪人や善人が生まれながらに規定されているのではなく、物の善悪も含め全ては機縁であるとするものです。

でありつつも、一切が空、つまり無限の可能性に揺れていながらも、少しでも『善』の方にバイアスを働かせていこうとするのが仏教の実践的な側面です。

究極の不殺生は、相手は勿論、自分も殺されてはいけないわけで、そうならないために普段から最大限の努力は払うべきだと私個人は考えています。

「敵を殺さないと自分が殺される状況に置かれたらどうするの?」

この問いかけは、仏教徒にとってはある意味悪魔の選択のようでもありますが、僧侶ならば誰もが胸の中で密かに構えておかなければならない事ではないでしょうか。

『殺すか殺されるか。』この究極の二者択一しかない構造自体を人に迫り、また自分自身を追い込むことが果たして健全なことなのかという問題は、ある意味でこの問題からの逃避として捉えることもできて、『あくなき抵抗』という選択肢が取り除かれているこの問いかけは本当に悪魔の選択です。

あと100年、200年そこらでは辿りつけないのかも知れませんが、人が争いをしない世界、少なくとも殺し合いはしない世界。
それを目指して仏教も他の宗教も政治も企業も個人も最大限の努力を続けて行くしかないのではないでしょうか?

私は悪魔の選択から逃げているのかも知れませんが、『答えることができない』という態度は決して恥じるべきものではないと思います。

答えることが出来なくても、常にそれを考えつづける、しかも自分の立場に照らし合わせながら、また他人と議論したり知識を増やしながら常にその問題に向かい続ける。私はそうあり続けたいと考えます。

仏教徒ではなくて誰かが、もし、仮に、「相手を殺します。」だとしても、決してそれを言わない。

そういうスタンスもありなのかも・・・?

年明け早々、考えさせられる内容でした。

 

南無

 


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「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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