関わりあわなきゃ何も生まれないだろう

(年に一度のマーダルサンガの発表会まで、あと10日を切りました!
一人でも多くの方にお越しいただきたいです。)(^^)/

一週間程前のことですが、秦ふれあいセンターという施設の15周年イベントにマーダルサンガの一員として演奏させていただきました。(↑の画像)

会場でのリーダーのMCが心に残っていて且ついろいろと想うこともあり、少し長文を書きました。
マーダル発表会と直接は何も関係ないことをご承知の上、お読みいただければ幸いです。以下自己啓発的な駄文です。m(__)m

 

仏教には、『梵天勧請』(ぼんてんかんじょう)という有名な逸話があります。

要約すると、35歳で悟りを開かれたお釈迦様は以下のように考えられたと言われています。
「この悟りの境地を理解できる人はおそらくこの世にはいないだろう・・・。よし、独りこの境地に入ったまま肉体の死が訪れるのを待とう・・・。」

そこへ、
「ちょっと待ったぁ!!」
と異議申し立てをしたのが梵天です。

梵天は別名ブラフマンとも言われ、インド神話に於ける最高神であり宇宙の根本原理を神格化した存在とも言われます。

梵天のお釈迦様に対する異議申し立ての理由は、
「この上ない無上の悟りを開かれたあなたが、その教えを誰にも示さず独りひっそりとこの世から消えてしまえば、きっとこの世は近い内に滅んでしまいます。どうかその肉体の寿命が尽きる時までこの世に留まり、法を説いて広めて下さい!」

と、請い勧められたことから梵天勧請と呼ばれています。

この逸話は仏教史の中ではあまりにも有名です。
しかし穿った見方をすれば、バラモン教及びヒンドゥー教に対して、さらにはインド人の精神性の中で、仏教の優位性と特異性を担保するためのこじつけとも取れます。

実際に有名な仏教学者の佐々木閑先生が高知に講演に来られた際にも、そのような解釈が仏教学上でも有力であると仰っていました。

この梵天勧請の後サールナートの地に於いて、お釈迦様は5人の修行仲間に初めて法を説きます。
この最初の説法は初転法輪と言われ記念すべき仏教が生まれた日であるとも言えます。

何故なら、たとえお釈迦様が悟りを開かれていても、梵天勧請もなく初転法輪も無ければ、仏教という体系的な教えはこの世に残らなかったでしょう。

(初転法輪とは、お釈迦様の教えの仏法を輪宝と言われる車輪型の武器に例えて、それがこの世のあらゆる邪見を薙ぎ倒し広まっていく最初の回転という意味から。)

さて、そういうわけで遡れば梵天勧請こそが、仏教を仏教たらしめた重要なきっかけと言える訳ですが、私はここに重要な視点を見出します。

それは、関わるということです。

この場合に於いては、悟りを開かれたお釈迦様が、以後出会うであろう様々な人々に関わるということ。
また、教えを求める多くの人々がお釈迦様に関わるということ。
そして、それら全ての人々がお釈迦様という核を中心として関わり合うということです。

 

ここで、話を一旦、現代の我々の世界に戻します。

かなり唐突ですが、皆さんは今、この世界がこうなっている事をどう思われますか?

例えば、これを読まれているほとんどの人々は仏教サイドの人かも知れません。しかしどうでしょう。世界には全く考え方の違う人々、生活スタイルは勿論、哲学や信条や主義、果ては信念までもが180度違う人々がいます。確実にいます。

何も、海外に目を向けなくとも、皆さんのすぐ周りを見渡してみてください。そこには全く反りが合わない人や、性格的に苦手な人が必ず一人や二人存在するはずです。

それでは、その今の状態がいつかは是正され、つまりそういう人々と解り合える日が来るのでしょうか?

そもそも我々の認識を超えた統一原理のようなものが働いたり、或いは大きな力がもたらされたりして、我々は解り合える日が来るのでしょうか?

我々が解り合えないのは、解り合えないと思っている私が間違っているからでしょうか?
それとも審判が下される日が来るのでしょうか?

地球上の全ての人が同じように考える日が来るのでしょうか?

 

断言はできないのですが、私はそんな日は来ないと思います。

そう、全ての人が解り合える日は来ない、と私は思います。

では、この世は虚しいのでしょうか?生きる意味など無いのでしょうか?

その答えは簡単で、それはあなたが決めることなのです。

この世がこうあるべきだとか、真理がどうこうとか、宇宙の意味であるとか、お釈迦様はそれら全ての疑問に対して無記(何も答えない)というスタンスを取られました。

つまり、そんな疑問はどうでもいいのです。でもそんな言い方をすると突き放したようで誤解を生みそうですので、敢えて付け加えると、そんな疑問への答えなんて自分で勝手に決めてしまえばいいのです。

ただ一つの正解など無い。そのことを仏教では空と呼びます。

空(そら)には様々な色があってどれが空の本当の色なのか決めることができないのといっしょで、
空(くう)とは無限の可能性を意味します。

ですから、個人が生きる意味やこの世の真理や宇宙の摂理などなど、それら全ては無限の可能性の中に揺れているのです。

一人の人間が意味よりも意志の大切さに気づく時、その意志によって身の回りの全てのものには意味が付与されていきます。

さて、かなり自己啓発的な物言いになってしまいましたが、そろそろ本題に移ります。(笑)

この記事のテーマである『関わり合うということ』とは、上で述べた意志に続いて重要なもので、関わりこそがこの世の現象の全てであるといっても過言ではないと思います。

一人の人間が自分の意志で好きな生き方を選ぶ時、同じく自分の意志で世界はこうなのだと想う時、さらには過去の出来事でさえ自分の意志でその意味付けをする時、
「お、いいねぇ!」や「ちょっと待った!」の関わりあいが必ず起きます。

連帯はもちろん、抵抗でさえ『関わり合う』の側面のひとつなのです。

自分が生まれた意味や、この世界の混乱に対して一つの答えを出そうとしていた私はその昔、自我の底が抜けた経験があります。

そして今でもその底は抜けたまま、喜怒哀楽と右往左往、行きつ戻りつの人生を歩んでいます。

重要なのは、勇気や知識よりも、意志と体力です。
前者は後者があってこそ、後から何とでもなります。

そうして、どうにかこうにかやっている内に自然と、ある種の、もとい幾種もの『関わり合う』が生まれてきました。

前の寺報でも書いたことですが、心の中に自分がいるのです。

ですから、その幾種もの関わり合いの中で様々な人と心を共有しています。
よく言われる「自分は独りじゃない。」というのはもっと言えば、
「ある種の心の中で私は独りじゃない。」と言えるのではないでしょうか。

それでも時には、関わり合うという事も煩わしく思えるものです。
そんな時は暫くそのままで休んでいましょう。自我や主体性などは本来身も蓋もないものですから、体力が戻ればまた思考も変わります。

諸行無常の本当の意味は、良くも悪くも全ては常に変化しているという意味なのですから。(^^)/

南無


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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