冨嶽両界峯入修行記(後編)

3日目

修験者として僕の経験値の浅さは既に述べた通りだが、標高に関して今までの自己記録は、高知県と愛媛県を跨ぐ西日本の最高峰である石鎚山の1982mだ。

雲海荘の海抜は約2500m、しかもそこで一晩泊まる。

聖護院での大峰奥駈修行では、その行程の3日目に泊まる弥山(標高1895m)の夜がかなり寒いということを経験している。

しかし今回の富士山はそれよりも時期が1ヵ月遅く、しかも標高は600mも上である。

最も寒い山修行を経験するであろうことは参加を決めた時点で既に明らかなことだった。

そして事前準備の段階から、この寒さ対策に関しては常にあれこれと考えてきた。しかし何のことはない、現代の科学技術の恩恵に与れば複合編地素材や吸湿発熱繊維を生地としたインナーや、摩訶不思議な防水透湿性素材で出来たゴアテックスなるものなど、コンパクトに携帯出来て便利なものがスマフォからポチっと買えてしまうのだ。

僕は今回が人生初の雪山になるかもしれないという最悪の天候を考慮して、スマフォからポチっとではなく、わざわざ県外の専門店まで出向き、実際に商品に袖を通してまで防寒防水の備えには真面目に取り組んできた。

また、濡れた地下足袋で積雪の山頂部を歩くと、足の指の凍傷なども十分考えられるので、リュックの底には登山靴も忍ばせていた。

いったい大昔の行者さん達は、どんな装備で富士山での寒さや雨に対峙してきたのだろうか?

やはり、初夏から夏のお山開きの期間しか山に入らなかったのだろうか?

今で言う懐中電灯やヘッドライトは松明だったのだろうか?

いろいろと気になるところはあるのだが、とにかく先人達の山修行への気合いの入りようは、あれこれと女々しく着替えの算段に気を取られている僕とは比べ物にならない次元で凄まじかったに違いない・・・。

 

さて、そんな訳でいよいよ本格的な登山の様相を呈してきた3日目の朝、僕はみんなより1時間早く目が覚めて1階に降り、食堂の隅に置かせてもらっていた自分のリュックの中をガサゴソと模様替えしていた。

気温が気になって一度インナー姿のまま外に出てみた。まだ午前3時半だったがそこまで寒いとは思わなかったし空も晴れていた。

月は場所を変えながらも夜空に居座り、昨日の我々の達成感を今日の元気な出立に引き継いでくれようとしている・・・。

「・・・行ける!」

不動明王と一体になるという覚悟とは、この何処から湧いてくるのか自分でもわからない確信の先、つまりその元気とか勇気の源泉を見極めることなのだろうか?

とにかく良い感じである。

5時の出立勤行に合わせて、皆も僕もバタバタと出発準備に余念がない。

独り1時間前に起きていたこともあり、早めに衣体を整え少し早く外へ出ると、一般の登山客の方々と思しきヘッドライトの灯りが、雲海荘を挟んで登り下り両方の道にチラチラと揺れていた。

10月を過ぎると、我々が登る富士宮ルートはもとより吉田・須走・御殿場の3つのルートもとっくに閉鎖されている。
それにも関わらず、結構な人数がこの日も山頂を目指しているということは、今日はかなりの好天気が見込まれているということであって、やはり『富士への道は開かれた』ということがよりリアルに嬉しく感じられた。

 

昨日、西川先達より雲海荘から山頂へと登る間、法螺貝を吹くペースは充分間隔を空けた方が良いとのアドバイスを頂いていた。

その理由は、やはり高山病のリスクである。

ましてや2000mより上の世界は初体験の僕にとって、高山病の心配は常に頭の中にあった。

意外に思われるかもしれないが、実は法螺貝は険しい登りの時こそ吹くことが推奨されているし、また自分が予期せぬような良い音も実際そういう場所で出てしまうものなのだ。

そもそも法螺貝が上手に吹けるようになる事はイコール腹式呼吸と長息をマスターするということであって、一見するとつらい登りで法螺貝を吹くことは歩行の妨げに見えるが、実は歩行を健全な呼吸によってより歩きやすいものにしているのだ。

そういう利点は敢えて公にせず、辛い登りで懸命に法螺貝を吹いているという健気な姿を誰某となくにただ披露したいというやましい気持ちが無かったというと嘘になるが、とにかく僕には、「山頂まで法螺貝を吹き続ける。」という気負いがあった。

そして西川先達は、敢えて僕のその気負いを汲んで下さった上で、人それぞれの持って生まれた体質にも依存する高山病というリスクを踏まえ、先のアドバイスを下さったのだ。

それを受けて、恐る恐るではないが充分に間隔を空けて法螺貝を吹きながら登り、かれこれ1時間以上は経った。どうやら今のところ高山病の気配は無いようである。

雲海荘で一晩を過ごすならば、その心配は殆ど無いとのことは事前に方々で聞いてはいたが、今この時点で、自分の身体からエネルギーが溢れていることが何よりもその証拠であり、先行きは明るかった。

そして夜も明けようとしていた。

後ろにはまだ月がでています
修行者たちも同じ色に染められています。

おそらく、御来光を拝んだのは8合目にかかる直前ではなかっただろうか。

標高3000mを超える地点で、遙か雲海の果てから少しずつ全てが同じ色に染められていく。

御来光も、それを拝む僕たちも、同じ色に染まっている。

それはまるで、仏性というものが全ての生命に宿るとした如来蔵の思想を正に具象化したような光景で、主観と客体を超えた唯一不二の場に僕たちは居た。

美しいと心から感じる瞬間、きっと心もその美しさに染められていているのだ。

文字通り一歩間違えると落石を起す危険があります。

山頂に近づくにれ、勾配は苛烈さを極めた。
もう太ももから足を上げ、掴める石が有れば少しでも手を添えてかき登っていくような様相である。

ところどころで出くわす、今はシャッターを降ろしている山小屋の猫の額ほどの平地を通る時だけが唯一の足休めになる。

とうとう9合目の万年雪山荘まできた。

余談ではあるが、万年雪山荘に据えられた石碑には標高3460mとあった。しかし奥野先達の腕時計の表示ではそれよりも100mちょっと低かった。いろんな事情があるのかも知れないが、実際にこの場に来ないと気づけない小さなトリビアを得たことが少し嬉しかった。

いずれにしてもこの時点で、山頂の奥宮までは残り高低差400mを切っている。普段247mの大滝山でも30分かからずに登っているので、このペースだとつまりあと1時間以内で登頂は叶うのだ。

あとはもう勢いだけだった。

立って休みたい気持ちもあったが、ひたすら長い呼吸を心がけ、同じペースで登り詰めた。

 

頭の中では何の感動的なBGMも無く、僕は淡々と頂上入り口の鳥居をくぐりぬけた。

少し乱れた自分の呼吸の音と、赤石と呼ばれる火山礫を踏む音だけが聞こえた。

普通の山登りで頂上に来れば、振り返って麓の街並みを眺めたり、周囲を見渡して○○山が綺麗に見えるよなどと、僕もはしゃいでしまっているに違いない。

ただ、我が目で見たここ富士の山頂は、異界だった。

植物は一つもなく、砕けた岩石が織りなす荒涼とした色合いに雲の上にある青い空が対照的で、かなりの紫外線が降り注いでいることが、自分の肌身を以て感じられる。

富士宮ルートの下山口に立って周囲を見渡すと、そこよりもまだ数十mは上にある剣ヶ峰に建てられた測候所や、天井の低そうな茶屋、本宮浅間神社の奥宮や鳥居、そして同行の仲間や一般の登山客・・・。
人間の営みを感じさせる物や、話しかければ互いに達成感を共有し合える他者がいればこそ、その山頂の風景は僕の中で辛うじて明るいものとして写っていはいたが、正直、僕の目から感じられた山頂は、「ここでは浮かれていられない。」という、あくまで崇敬の意味での異界だった。

天気も奇跡的に快晴で、動いているぶんには気温も全く寒くはなかった。しかしその快適さは、きっと台風の目のような一時のもので、我が身を通して感じた富士の山頂は荒涼としていて厳粛なものだった。

冨嶽両界峯入修行とは宮元会長が銘打たれたものである。
そしてその両界とは、この世とあの世の二つの世界。
田子の浦から山頂までが生の世界で、山頂から樹海を抜けての精進湖までが死の世界。山頂は、まさにその両界を分かつ、何とも形容しがたい異界なのだ。

僕は居心地の悪い不快さを感じたのでは決してなく、ただ、この山頂一帯は敬われるべき聖域であると真にそう思えた。

実は霊感というもの全くを持ち合わせていない僕ではあるが、この時ばかりは尋常ではない場の力というものを感じずにはいられなかった・・・。

天候にも恵まれたこともあって、ペースはかなり順調に進んでいた。

予定ではここで昼食を取り、そのあと賽の河原で追善供養をして下山の流れだったが、後詰めと呼ばれる最後尾の内田先達が到着して、さほど休む間もなく勤行の準備が始められた。

このしろ池と呼ばれる小さな池には氷が張っていて、一般の登山客の少年たちが珍しそうにその氷を割っていた。

そこから20mほどの場所で我々の勤行は厳かに始められようとしていた。

御顔が破壊された不動明王を中心に、たくさんの欠損した仏像が並べらています。

この場所まで宮元会長自ら背負って来られた沢山の水塔婆一枚一枚に故人様の戒名が記されている。

それを見つめながら、大和修験會による冨嶽両界峯入修行にはたくさんの方々の想いが託されているということを僕は改めて思い知った。

我々はここまで重い荷物を背負いながら自分の足で歩いてきたのだ・・・。いや、歩いてこれたのだ!

何故か?

周囲の方々に支えられ、且つそれぞれが健脚で自身の健康があったからだ!

そう、今僕は生きているのだ・・・!

そんな自問自答を繰り返しながら、僕は泣いた。

自然と泣けてきたのだった・・・。
それは今自分が生きているという感動や、生かされているという感謝を体でわかったような気がしたからでもあるし、また、何故あの人たちは死んでしまったのか?、というやり場のない悲しみを伴う不思議が、やるせなく、ただやるせなく溢れてきたからだった。

普段、人一倍理屈っぽく物事を捉えている僕が、この時ばかりは理屈が無かった。

今だからこそ言葉にできるが、頭部を破壊された仏像群に手を掌わし、法華経の自我偈を唱えながら自然と涙が出てきた時、感動と感謝と悲しみと不思議が複雑に入り混じった、本当に形容しつくせない感情があった。

そしてそれは僕だけに起きたことではないようだった。

今思えば、この時、僕らは如来の大悲の中に居たのかもしれない。

(※ 大悲とは、大きな悲しみというよりも、他者の悲しみに寄り添いさらにその苦しみから救おうとする大乗仏教において掲げられる広大な慈悲の心である。)

そこでは、己の作為からの慈悲ではなく、もはや語るべき主語が究極的に昇華された、ただ、大悲のみがあるのだ。

つまり、僕という主語があり、それに述語としての感情が付随しているのではなく、富士山の山頂部まさに大日如来の懐に抱かれ、僕はほんの一瞬だけ大悲そのものであったような気がする・・・。

日本の最高峰剣ヶ峰にて。

宮元会長と隆彰君のツーショット。

お鉢巡りと呼ばれる富士山の火口をぐるっと一周するコースがあるが、僕たちは富士宮ルート下山口からそのコースに入り、時計回りに剣ヶ峰に立ち寄り、遙か左前方に八ヶ岳を確かめながら、すぐ右手下に迫る巨大な火口の淵を蟻のように周回しながら久須志神社に着いてやっと一息、昼食となった。

実は、剣ヶ峰を下ったあたりから僕の体調は少し怪しかった。
僅かながらのだるさを感じ始めていたのだ。もう正午を過ぎた頃なのにあまり食欲が湧いていない・・・やはり高山病の兆候か?

とにかく久須志神社はすぐそこなので、あまり気にしないように歩みを進めた。

雲海荘で頂いた弁当をなんとか体にかき込んで、20分程の休憩時間はあるだろうと勝手に見込んで、暫しの間ひとり昼寝をすることにした。

汗は乾いているが日光の真下にいてもやはり風は冷たい。リュックからレインウェアを取り出して上着は前後ろ反対に袖を通してベンチの端を借りた。

後で気づいたことなのだが、同行の皆は僕の昼寝姿を真似して同じように日向ぼっこをしていたようである。でも実は、この時の僕は切実に体調を少しでも良くするべく致し方なくの昼寝だったのだ。(笑)

高山病の時に昼寝は良くないらしいが、僕は完全に寝てはいなかったものの横になり、とにかく基礎代謝を抑えるだけで幾分かは楽になっていた。

そして出立の号令がかかるまでその状態であったので、独り慌てて衣体を整え、勤行に加わった。

さぁ、ここからは冨嶽両界に於いての死の世界。

「頂上まで辿り着いてホッと安心するんだけど、その先がまだまだ長い。」
との宮元会長のお言葉を思い返しながら気を引き締め、山梨県側に至る吉田ルートを少しずつ下り始めた。

足の甲の痛みはもう取るに足らないものになっていたが、今度は腰の痛みに心を捉われていた。

僕はかれこれ4ヶ月以上前に右の腰上の筋肉を軽いぎっくり腰で痛めていた。

つぼの位置で言うと志室と呼ばれる箇所、スポーツ医学的には腰方形筋いわゆる体幹の筋肉の一部だ。

体幹というのはざっくり言うと身体のバランスを保つ上で必須の筋肉である。

その体幹をぎっくり腰で痛め、ここへきて痛みが再発しだした最大の理由は、急な下りで転落しないようかなりの負荷を患部にかけていたからだ。

しかも僕1人だけ自分の意思で杖を持ってきていない。

下りでよく話題にされる膝の方は問題無かったが、今回ばかりは杖の必要性が身に染みてわかった。

両足と斜面によって作り出される一歩一歩の振動が患部をブルブルと共振させる。

日頃の身体的な故障は、それが小さな故障に思えても、普段なかなか意識できない身体の内部に、実は密かに潜在しているものなのだ。

僕は現在33歳、10代の頃のようにはいかないことは確かにある・・・。

 

延々とつづら折りの下りが続く。

富士宮ルートに比べて山小屋が多い吉田ルートをかなり下まで下ってきた。

振り返ると、山頂はもうそこで誰かが手を振っていてもわからないほど、もとの近寄りがたい気高さを取り戻している。

例年はなだらかなブル道を、傾斜を稼ぐ分距離をかけてひたすらザクザクと進み下る道らしいが、今年は正規の吉田ルートをそのまま下ってきた。

いつのまにか辺りには木々が広がり、太平洋側の富士宮ルートでは目にできなかった紅葉が、内陸側の吉田ルートでは既に始まっていた。

この地点でもまだ標高は2400mはある。

途中、日蓮上人が法華経を安置したとされる岩屋でも勤行をさせていただいた後、少し歩みを進めると、微かに焚火の香りが漂ってきた。

時刻は午後6時に迫っている、念のためにヘッドライトで足元を照らしながら、赤よりも黄色が目立つ紅葉の中を抜けると、本日3日目の宿である星観荘に到着した。

当初は昨日の2000mの登りに比べて、今日の1400m程の下りは大したことはないだろうと甘く見ていたが、いやいや、実に長い下りだった。

星観荘に祀られている不動明王は宮元会長が開眼(魂を入れる作法のこと)をなさったそうで、その御縁もありオーナーからの計らいで夕食は豪華だった。

ボリュームのあるお弁当に、野菜中心のおでんがコンロの上に据えられていた。

温かい食事にありつけることが本当に有り難く、そして何よりも同行一同が元気にこの場にいられることが嬉しかった。

昨夜に引き続き宮元会長から法話を頂いた。

「この3日間を振り返っての精進、努力、忍耐、心掛け、それらはこの3日間だけに留まるものではなくて、いつでもそう在ろうとしなければならない!」

そのお言葉を聞くのと同時に、それぞれ皆の心には更なる発心が生まれていた。

それは、改めて問うまでのことではなかった。

 

最終日

星観荘を出立してすぐに御来光となり、僕らは小御嶽神社に参拝した。

この日も天気は快晴である。

御来光の朝日が山肌にかかると、昨日は薄暗くて細部まで見えていなかったこの地の紅葉の美しさに心を奪われた。

どおりで一般の参拝客が多いはずである。

小御嶽神社には大きな駐車場も完備されていて、もうここでは紅葉のレジャーシーズンが始まっていたのだ。

僕はふと、小御嶽という名前が気になって、稀少な刀鍛冶であられる内田先達に質問を投げかけてみた。

僕の浅はかな仮説である富士山を御嶽としての小御嶽ではないのか?、という問いに対して、内田先達からは意外な回答が返ってきた。

「実は、小御嶽神社は小御岳火山という火山の山頂の上に建てられています。富士山に比べて小さく見えますが、火山としては10万年以前のもので、その後古富士火山ができ、さらにその上に被さるように今の新富士火山が出来ています。」

「その地学的歴史を裏付けるように、小御嶽神社の御祭神は磐長姫命(イワナガヒメ)といい、富士山の御祭神である木花咲耶姫のお姉さんになっているんです。」

何というミステリーだろうか!

日本神話を構築した古の先人たちは、富士山に比べればとても小さいこの小御岳を富士山出現より以前のものと、何らかの根拠を得て知り得ていたかもしれないのだ。

こういった所にも富士山の奥深さを感じずにはおれず、ますます自分の中で知識としての富士山が更新されていくのだった。

小御嶽神社ですが、扁額には冨士山大社と書かれています。
富士山を真後ろにして。紅葉が本当に綺麗でした。

そして道はかの有名な青木ヶ原樹海を通り、精進湖へと続く。

樹海という言葉のもつイメージは、現在ではマスメディアの影響のせいかあまりよくないような気がする。

樹海=自殺の名所、という先入観を抱かれることが多いのではないだろうか。

しかし、いざ樹海を歩いてみてるとそんな先入観はすぐに払拭された。(僕がその雰囲気に感動した場所は樹海でもかなり標高が上のほうではあるが)

富士山麓の原生林。地元高知の山々では聞いたことの無い野鳥の鳴き声も聞こえる。地面は、落ち葉が堆積して適度に踏み固められた柔らかな歩き心地で、心も体も癒されていく。

小御嶽神社の云われを教えて下さった内田先達が顔をほころばせながら、「この道は険しい道を歩いてきた人へのご褒美のようで、自分も大好きなんです。」と話されていたのがとてもよくわかる。

けれども、道が緩やかな下りで歩きやすくなった分、ペースは少し上がり、休憩をとる感覚も空いてきた。

大和修験會の山修行での特色は、『何も物を持たない手は常に内拳にして腰に当てる』つまり、手をブラブラさせて歩かないということである。

常に精神を集中した状態で山を歩く、その姿勢が腰にあてがう内拳に表れている。

歩きやすく心地の良い道でも、ピクニックに来たのではないのだから、けっして私語は始まらない。

また、逆に言うと、そういう緊張感を持続させる為の内拳であり、またその姿勢は人生に本気で向き合う宮元会長の基本姿勢であり、大和修験會のモットーなのだ。

結願の地である精進湖を間近に控えながら、微かな気の緩みを感じていた僕は、今一度そんなことを考えながら自分の基本姿勢を正そうとしていた。

僕の場合右手に法螺貝を持つので、左手は常に内拳です。

いよいよ、精進湖まであと3km程に迫ったところで、最後の新客行(初参加の人が修めるべき修行)が待ち構えていた。

しかし残念ながら、この新客行についての一切はここで語ることが出来ない。

何があって、何をして、何を体験したのか・・・、それは実際にこの大和修験會の冨嶽両界峯入修行を最後まで歩き通して、己の心身で対面していただきたいと切に願うばかりである・・・。

途中で富士風穴にも少し立ち寄りました。とても巨大な穴で鍾乳洞とは趣が大きく異なっていました。

精進湖に近づくにつれて、気温が上がってきたことに気づいた。

苦行から解放されるといった喜びを待ち望む胸の高鳴りなど微塵もなく、僕はただ淡々と最後まで確実に歩みを進めるだけだった。

法螺貝の音は既にヨレヨレになってきてはいるが、それでもさっき吹いた音よりも綺麗な音を出そうと懸命に吹く。

そもそも修行は苦行ではない。

自ら発心を起してこれに参加し、自らの肉体を通して何かを修しているのだ。

体裁を繕う言葉で言えば、それは六波羅蜜を修することである。しかし、六波羅蜜の再解釈など言葉を操れば幾らでも自己啓発的な文言を並べられる。

修行を語ることと、いざ自分が修行に入ることには大きな隔たりがある。

その隔たりを作る物こそが自我であり、自我とは我欲であり、また一切の苦楽を感じるところの体感である。

その己の体感を通して、苦痛や美や感動を感じて、がむしゃらに淡々と何かを修していくのだ。

思うにそれは、詰まるところ人生そのものではないだろうか?

繰り返しになるが、修行とは人生の縮図であるというのが、今回この富士山での修行を通して僕が僕なりに気づいたことなのだ。

 

密かに僕が思い描いていた精進湖のゴールは、美しく澄んだ湖の上に自分達が下ってきた富士山が映し出され、正にお涙頂戴的な絵になる場所であった。

しかし、いざ辿り着いたゴールは、富士五湖の中で最も小さな精進湖のしかも端っこの淀み、遊覧カヌーが積み上げられた何の変哲もないただの河原だった。

でも、その風景に落胆などするはずもなく、心は晴れやかで、気持ちは日常という修行の場に静かに向かい始めていた。

 

最後になりましたが、大和修験會の宮元隆誠会長はじめ先達の方々、一緒に苦楽の中を歩んだ参加者の皆さん、また全員に目を配り一行をサポートして下さった会長の奥様、そして修行に行かせてくれた家族、全ての方々に感謝申し上げます。

有難うございました。

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「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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