社会と宗教の関係性

去る8月24日に、幼馴染の建築士が運営してる『Bar Learning Commons』というトークイベントに僧侶として招かれ、あれこれと語らせていただける機会がありました。

その中で、常に自分の頭の中にあった一つのテーマが『社会と宗教の関係性』についてでした。

このテーマは社会学や宗教に関係する人々には一見ありきたりに見えて、またそれ以外の人々には何やら堅苦しく難しそうなものに見えますが、私が思うにこれはこの世界の混乱の主原因に大いに関わる極めて重要なテーマであるはずです。

その理由は、このテーマについて考えることが実は様々な宗教(もっと言うと個々人の独善的信仰のレベルのものも含む)の中で実際に起きている、究極の理想と現実の状況との隔たりを生む原因、つまり上で述べた世界の混乱の主原因について考えることに繫がるからなのです。

順を追って説明すると、『社会と宗教の関係性』について先ず大きく分けて3つの観点からの関係性というものが考えられます。

先ず一つ目は、社会と宗教その二つは対比され得るものなのか?
二つ目は、それともどちらかがどちらかを内包するものなのか?
三つ目は、あるいは国や地域や文化や時代性によってお互いに複雑な相互作用で影響し合うものなのか?

歴史的な面をざっと鑑みると、おそらくこの3つの観点の内の三つ目が実際のところではないだろうかと思うのですが、私個人の考えとしては二つ目の『どちらかがどちらかを内包する』という観点から両者の関係性を考察したいと思います。

そして結論を先に言うと、あくまでも私個人の考えとしては、『社会が宗教を内包する』という形が理想とされるべきではないかと思うのです。

 

宗教者として、また仏教者としてこんな事を言っては恐らく失格なのでしょうが、あくまでも現代に於いてはより良き社会にする為に宗教があるのです。

そして、宗教が人が生き抜くための拠り所とされ得るのは現代でも同じなのですが、ただ、それは個人の範疇に限ってのことであり、たとえ親子であってもその宗教を拠り所とするかどうかは個人の選択に任されるべきなのです。

何故なら、特にこの日本に於いては社会はとっくにより多元的なものに移り変わっていて、何を信じようとも信じないとも、またどのように生きるとも生きないとも、そこに介在しているものは、ただただ人の意志や想いだけであり、それらの選択をどのようにしようともはっきり言って自由なのです。

このあたりの達観めいたものが、唯一絶対神を信仰する人々や、輪廻転生の法則や魂のステージなどを想定するスピリチュアルな人々には受け入れられないのでしょうが、その理由も何となく想像できます。

それは簡単に言えば、無限の可能性を直視することができないからなのです。

以前から般若心経の解説などで私はさんざん『空』とは『無限の可能性』であると述べてきていますが、正直に言うとこれを直視するということは一見簡単に見えて、実はなかなかに重たい或いは孤独なことなのです。

かつてデカルトが残した有名な言葉、
「我思う、ゆえに我あり。」
仏教の観点から言うと、我は因縁によってあるのであり、思考しているからあるのではないです。つまり『非我』こそが我の実相であるのですが、それをやっているといつまでたっても堂々巡りで面白くありません。

敢えてこんな言い方をしますが、
どうせ生きるのなら面白い方がいいじゃないですか!
「我思う~」の思うも、もっとワクワクすることの方が楽しいじゃないですか!(^^)/

だからこそ、無限の可能性の中から選び取りましょう。
逆説的な補足をすれば、無限の可能性だからこそ唯一絶対神を信じることも、スピリチュアルを突き進むことも大いに結構なわけです。

でも、あくまでもそれは個人の範疇に留めておくのがより良き社会の為ですし、より良き社会の為になるものは自然と広がってゆくものです。
「じゃあ、より良き社会って何よ?」というツッコミを私自身に入れるならば、漠然とより良き社会を意識して徐々に他者と連帯していくほうが、一人で頭を悩ませているよりはマシなわけです。

また、私は法律に関してはずぶの素人ですが、恐らく犯罪を犯さない人の大多数は、その犯罪を犯さないという意志を生んでいる原因は何かと問われると、きっとそれは分厚い法律の本の存在では無く、また刑罰のペナルティでもなく、突き詰めれば悪い事をすると悲しむ人がいるから、つまり悲しみという人の想いに共感できるからだと思います。

『社会が宗教を内包する』。この意味での社会とは、何もクローズアップ現代のオープニングみたいなものをイメージするのではなくて、我々の半径100メートルの中で繰り広げられる人と人の営みを意識してもらいたいのです。

先ずはそこから、その営みがいかに更なる善に向かっていくのか?
その意味で宗教を活かすことが、宗教を語る上で何よりも忘れられてはいけないことだと思います。

何だか纏まりのない文章になってしまいました(笑)


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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