日差しは暖かでしたが、まるで寒戻りのような冷たい風が凄まじかった3月8日。
この日は、日高村観光ツアーのお手伝いに参加させてもらいました。
(この日は、岡山県から36名のバスツアーの団体様がお見えになりました。日程は、調整池で散策&バードウォッチング → レストラン高知にて昼食 → トマトの掴み取り → 村の駅ひだかでお買い物 )
観光ツアーと言うと、何か国宝級の建築物や国立公園クラスのランドスケープを想像されるかもしれませんが、日高村には基本そのような極端に人目を惹くものは一切ありません。(笑)
公には言わないものの、『何もない村』とは、長年にわたる村民の中での密かなコンセンサスとも言えるものでした。
しかし、その『何もない』は本当でしょうか?
そもそも、この地球の表面に広がった我々の世界に、何かある場所と何もない場所の区別があるのでしょうか?
否、断じてそんな区別は無いのです。初めから無いのです。
我々が、この地上を色眼鏡で区別して見てしまうのは、誰かが作り出した経済的な都合に惑わされているだけです。
一方で、『何もない』の反対の『何かある』とされてきた場所での観光とはつまり、消費されるそのものという側面が甚だ大きかったのではないでしょうか。
従来の風光明媚な観光地とは、要するに娯楽であり、一般大衆に提供される非日常でもあったのです。
しかし近年になって、我々は気づき始めています。
非日常を貪るだけの観光は、与えられた娯楽であり、そこからは地に足の着いた営みは学べず、また未来へのヴィジョンも無いということを・・・。
『何もない』と思ってきたそこには、実はその地で生きる人々の営みが確かにあるのだ、ということが近年になり広く意識されてきました。
その意識を、観光に於いての訪問者と現地での提供者の両者がどれだけ密に意識し合えるか、それこそがフットパスの本質であると思います。
日本フットパス協会の広報によると、フットパスの道とは、その地域の「昔からあるありのままの風景」を楽しむ道、とのことです。
昔からあるありのままの風景を楽しむ道・・・。
その道が繫がる場所は、その地域の未来ではないでしょうか?
テクノロジーや価値観が変わり、また社会が多様化していっても、人類が続く限りは、人の営みも続きます。
地域それぞれの営みをより豊かにしていく為、テクノロジーに利用されるのではなく、上手くそれを使いこなした上で、誰かに押しつけられる価値観ではなく自らの意志で選択した価値観が尊重される。
これからはそんな時代でありたいものです。
その為には、地域に根を張って生きている人々の中での、相互的自己肯定感が高まることが必然であると私は考えています。
また、相互的自己肯定感を高める為の第一歩は、同じ地域で生きる隣人に興味を持つことだと思います。
そして次には、自己を深めること。
これはつまり、自分がやるべきことに虚心坦懐に取り組むことであるとも言えます。
この一見すると方向性が逆に思える二つの取り組みが、なぜだか相互に干渉しあい、良き影響を及ぼし合う。
その状態が相互的自己肯定感が高い状態であり、またそんな状態の地域こそが魅力あふれる地域であり、そこで行われるフットパスはきっと素晴らしいものであるはずです。
以上、やっぱり『何もない村』の未来を楽観して、ただ中身のない理想を熱く語っているだけに聞こえるかもしれません。
しかし、ここ数年の自分自身を振り返えると、私は自分で己の現状を大きく変えてきています。
5年程前はブログなんかやる必要がないと思っていましたし、あれこれと発信することは憚られることだと考えていました。
しかし、身近な方々の急逝をきっかけに、私に与えられた時間も有限であることをつくづく思い知り、とにかくやれるだけやらなければ後悔する、その後悔こそが死ぬことよりも恐ろしい、とつくづく思うようになりました。
一地方寺院の挑戦は、一地域の挑戦でもあります。
護国寺の住職である私の挑戦は、一介の日高村民の挑戦でもあるのです。