家族葬とは何か

葬儀とは何なのか、また誰の為にあるのか?

そんな自問をした時、私の頭の中にまず浮かんでくるのが、『家族葬』というキーワードです。

実はこの三日間、私は葬儀の導師として、また遺族の親戚として、ある家族葬に携わらせてもらいました。
そこで改めて葬儀の在り方について考えさせられました。

現在巷では様々な葬儀の形式が提案されています。
高知県でこそ少数派ですが、そもそも従来の葬儀をしない、家族で看取った後24時間後には火葬場にて荼毘に付す直葬という形式も都市部では近年一段と増えてきたと耳にします。
経済的な問題も大いにあるのでしょうが、やはり現代人の既成仏教離れが原因の一つであると個人的には疑っています。

今回私が導師を務めた葬儀は、諸事情により通夜の明くる日遺体を荼毘に付し、遺骨になって直ちに葬儀を営むという形式でした。
臨済宗の僧侶であり芥川賞作家でもあられる玄侑宗久さんの御自坊でもそのような形式をとられることが多いようですが、高知に於いては稀な形でした。

わたしは御遺族の親戚ということもあり、また故人様との思い出も多々ありましたので、現在では多くの僧侶が携わることが少なくなった納棺から出棺までのお手伝いをさせていただきました。
そこでまず感じたことは、
「普段の私が導師として携わっていることは葬儀全体のほんの一部のことなのだな・・・」
という思いでした。

普段の私の導師としての務めは、まず葬儀社からの電話で始まります。
(まず檀家様からの電話ではなくて、葬儀社からの電話という事実に檀家寺として反省すべき点があるのですが・・・)
そこから、葬儀優先で自分のスケジュールを調整し、実際に御遺体を安置するご自宅等に出向くかもしくは電話にて故人様の人となりについてご遺族からお話を聞き、その上で戒名を考え自筆で位牌や卒塔婆や無常幡を仕上げ通夜葬儀に備えます。
そして葬儀当日約3~4時間の拘束時間で導師を務め、四十九日までの決まり事を言づけて寺へ戻るという流れです。

しかし今回は、御遺体に当てるドライアイスを夜、業者まで取りに行くというところから経験させてもらいました。そして実際に御遺体に触れて棺に納めることまでさせてもらい、察するには余りある悲しみの傍に立たせてもらいました。

普段の葬儀会場だけで接する御遺族と、親戚という事もありお供えの買い出しや準備途中の昼食まで共にする御遺族では、そこから私が受ける印象の密度には差があって当然で、昨日まで一緒にいた家族がもういないという現実の、その刃のような厳しさは、準備諸々の端々から私の胸をえぐってきました。

そんな三日間を通して、私は家族葬というものが本来の葬儀なのだと身を以って考え至りました。いや、表現を正すなら、『家族葬こそが葬儀の核であり、従来の葬儀と家族葬は別個のものではない。』という認識をもちました。

つまり、家族葬とは現代社会に対応した新しい葬儀の形などではなく、本来ごく自然な、人が人を弔うという葬儀の核そのものであるということです。

また普段は立ち会う機会のない葬儀社さんの実際に御遺体に触れるお仕事や、役所火葬場等への事務的な手続き、それらがスムーズに運ばれてこそ、導師が務めさせてもらえるのだなと改めて実感しました。

当たり前ではない一生一度のいろんなドラマが葬儀にはあり、御遺族の悲しみや故人様への想いのそれらは量り知ることができず、決して頭で解ることなどできないということ・・・。
でも少しでもその悲しみに寄り添うことで、御遺族が踏ん張る為の介助のひとつになれれば・・・。
これからも私が携わるであろう幾百の葬儀に、忘れることなく心がけていきたい想いです。
path45532

 


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です