正確には13日から16日までのお盆ですが、御命日が丁度お盆の日にあたる檀家様がおられ、例外的に年忌法要に重きを置いた併修ということで、若干のフライングながらこの日はお盆参りをさせていただきました。
さて、 『お盆』という言葉ですが、じつはこれ『ウラバンナ』という言葉が簡略されたものなんです。ウラバンナとはそもそも日本語ではなく、インドの古い言葉です。(一説にはさらに西方のペルシャに起源を持つとも言われています)
意味としては、霊魂や祖霊を表すという説が有力です。
このウラバンナがウラボンに変わり、さらに中国に於いて全く意味の関係ない漢字が当てはめられ盂蘭盆と表記するようになりました。
そして日本に於いて近年、盆と略されるようになり、それに丁寧語を申し訳程度につけたものがお盆です。ですから盆という漢字自体には本来ウラボンとの関係は有りません。
ウラボンという言葉だけに、ウラ=裏、と誤解される方が結構多く、そこから表盆というワンダーな言葉も生まれておりますが、上記の説明から表盆では意味が成り立たないことは御理解いただけると思います。
仏教行事としてこの盂蘭盆を営むことを盂蘭盆会(ウラボンエ)と呼びますが、仏教行事としての盂蘭盆会の由来には、お釈迦様の十大弟子の一人であった目連尊者という僧侶の物語が、大きく関係しています。
目連尊者とお盆、さらには施餓鬼と呼ばれる行事の由来については敢えてこのページでの説明は省略させていただきます。興味のある方は『盂蘭盆経』というワードで検索してみて下さい。
さて、この記事の本題としてそもそも、
・なぜお盆や霊祭りは夏に行われるのか?
という点について、あくまでも自論ではありますが、以下ブツブツと述べていきたいと思います。
では、お盆の事について考える前に、まず夏という季節について考えてみたいと思います。
日本には当たり前に四季があり、春夏秋冬それぞれの情緒が連綿と日本人の感性を育んできました。
その感性の本質にあるものは、平安時代に和歌を詠み合った若人たちでも、現代の部活帰りの高校生たちでも、両者それぞれが、恋の悩みや素晴らしさや将来への不安などを投影し、自身の中に溢れる想いを四季折々の移ろいを通して代弁してきたということではないでしょうか。
そんな日本人にとって、夏という季節は他の3つに比べて抜きんでて特殊な季節ではないかと私は思うのです。
それは多くの日本人が古くから稲作を中心に営みを築いてきたという事実をまず取り上げたいと思います。
有名な歴史学者の網野善彦さんの学説に、「百姓≠農民」というものがあります。これはつまり「日本人の多くは百姓であったがそれがそのまま封建的な苦役を強いられた稲作農民ではなかった。」、という主張ですが、まず私はこれを踏まえた上でも、歴史のうえでやはり日本人のほんとどは稲作を中心とした何らかの作物の生産で営みをしてきたと考えています。
そしてここからが重要なのですが、夏場、稲や多くの野菜はぐんぐんと成長すると同時に、一方では日照りや台風などで一気に収穫が危ぶまれるということです。
現在でこそ我々は科学文明の力を借りることができます。それは農薬や肥料、さらには天気予報やあらゆる現代的な農機具、これらのおかげで近代以前は致命的なダメージをもたらす自然災害でも、我々はある程度までその被害を抑えることに成功しています。
けれども、近代以前そしてもっと昔の我々の御先祖様は、その致命的な自然災害が及んだ直後、変わり果てた田畑の前で立ち尽くし何を思ったのか・・・。
私はその点について大いに想像力を働かせます。
私なりに考えておそらく、「これほど良くないことが起きるのは、どうも私らが日頃おこなっている氏神様へのお参り、鎮守の森の神様への祈り、祖霊への供養、彷徨える浮遊霊への施し、それらが足りていないんじゃなかろうか?」と素朴に、あくまでも素朴にそう感じたんじゃないでしょうか。
つまり、この夏場、普段以上に『目には見えない世界』に対して、供養を主体とした積極的な働きかけを行うことで、無事に秋の豊作を迎えようと願ったのではないでしょうか。
それらは供養にとどまらず、全国各地の津々浦々で開かる夏祭りの中にも、その願いが込められているはずです。でなければただの納涼だけであの祭りの熱狂が生まれる訳が無いと思うのです。
更に事例を加えるならば、怪談話しに代表される『あの世への恐れをともなった興味』みたいな感情も夏場に最も高まるのは周知のとおりです。
そして最後に付け加えたいのが夏特有の物憂げさです。
一見、夏と言えば夏休み、レジャーに観光にイベント盛りだくさん!麦わら帽子にタンクトップ姿の小学生が汗をほとばしらせながら夢中でスイカにかぶりつく・・・、何てイメージはもう古いのかも知れませんが、概ね夏と言えばパッと頭にそんな風景が浮かぶのではないでしょうか。
しかしながら、その第一印象とも言える夏の表層を抜けると、まるでピントがズレた霞む入道雲のような物憂げさと、じっとりと纏わりつく生暖かい空気の不快が、この世の生に相対する『あの世からの奇妙な誘い』として我々の感性を揺さぶるのではないでしょうか。
でもそんな物憂げさを蹴散してやろうという、何がしかの冒険への衝動もこの夏場には生まれやすいものです。
とにかく、夏とくにお盆の期間は目に見えない世界との繫がりを普段以上に感じていただき、故人様やご家族御ご親戚との団欒を大事にしていただきたいと切に願います。