本堂の横にある、百日紅(サルスベリ)の剪定をしました。
このサルスベリは、古い本堂の時代からこの寺にずっとあって、建て直しの時に場所を少しずらしてから以後も、元気で花を咲かせてくれています。
まる2年ちょっと剪定ができていなかったので、去年の夏の咲きぶりは少し悪かったです。
ネットで調べると、剪定の時期は11月から遅くても4月までとのこと。
少し遅めの剪定になりましたが、今年の夏から秋にかけての満開を願いながら、大胆に刈り込みました。
バッサリ。
少しやり過ぎ感があるぐらいが、目立ちが良くなるそうです。
(でも少し心配・・・)
さて、当然のことながら、変換キーを押して『百日紅』と表記され、そういえばこんな漢字だったな、と思い出す私ですが、実はこの百日紅の咲かす花が大好きで、毎年楽しみにしています。
剪定された百日紅の向こうには桜の蕾たちが控えていますが、個人的には例年、百日紅の花から元気をもらっています。
百日紅は、その名前の如く他の花達に比べて、長い期間咲いてくれます。
(遠目には同じ花が咲いているように見せて、実は交代交代で全体の美を保ってくれているのです。)
また、夏の炎天下の中、蒼い空とのコントラストを為す、目が覚めるようなピンク、紫、白といった花の色は、夏の終わりにつられて沈んでいきそうな心を、秋に向かっていつもワクワクさせてくれます。
一方、日本を代表する桜には、私はどこか不安を感じます。
しかし、花が散り始めて緑色が混じりだした葉桜の頃の桜は好きです。
何が言いたいのかと言うと、私は『満開』というものに不安を覚えるマイノリティーなのです。(笑)
(ちなみに、ベートーベンの第九も聞いているうちに段々怖くなってきます。笑)
おそらく桜の満開に関しては、満開になった瞬間から、次に舞うひとひらの花びらが散ることで、その満開が崩壊するのではないかという奇妙な強迫観念めいたものに、私は襲われてしまうのです。
写真や絵画や、それをモチーフとした音楽などの中にある桜の『観念としての満開』には、不安を覚えず、そこに美しさを共感できます。
でも、現実の桜には、なにか逼迫した、追い立てられるような美しさがあって、それが私には辛いのです。
短い花の命だからこそ、その一瞬を尊んで、その咲き誇る美しさを愛でてあげないといけないのでしょうが、ライトアップされた夜桜などは特に、綺麗を超えて恐怖を感じます。
『桜の樹の下には』を書かれた私の敬愛する小説家、梶井基次郎氏がもしこの世に生きていたならば、私が持つ桜への奇妙な感覚をきっと理解してくれるはず・・・。
と、勝手に共感の想いを寄せています。(笑)
いや、誤解のないように言うならば、桜が嫌いな訳ではけっしてなくて、むしろ桜の満開の美しさが美しすぎて、変な不安を覚えてしまうんだと思います。(笑)
まぁ、そんな精神の私でも春は大好きです。
この日は、久しぶりの庭仕事をしながら、春の息吹をたくさん五感で感じました。
今年も穏やかな春でありますように。
南無