本年最初の護摩は、意外にも普段よりたくさんの方がお見えになり、また遠方にお住いの理由で本堂に参拝が叶わない方からも発心の添え護摩を頂いたりと、たくさんの方の想いが合わさったお陰で、こちらの身がいっそう引き締められる厳かな修法となりました。
また、4月9日~10日にかけて予定している総本山聖護院門跡への参拝ツアーも、締め切りを直前に控えた現時点で、御陰様で17名程の方がお申込み下さり、何とか団参の体裁は整いそうです。
さて、今回書き留めておきたい事は護摩の話ではなく、今までありそうでなかった追善供養(いわゆる法事)の事です。
このブログを中心として、寺報やフェイスブックや講演等(めったにありませんが)で私がお伝えしていることは、量的な話で言うと実は私の僧侶としての活動の3分の1にも満ちていません。
本山修験宗の末寺でありながら、護国寺の法務の内訳は、祈祷に比べて圧倒的に葬儀や法事がその大半を占めています。
今まで何回か法事の中で起きた出来事を紹介していますが、法事の話題はかなりプライバシーに接近するものなので、いろんなドラマがあっても紹介できるのはほんの一部なのです。
そしてそのドラマと言えるいろんな出来事や背景も、正直言ってほとんどが地に足の着いた愛すべき地味なエピソードばかりです。
また、私のような第三者がドラマ性を以て纏め観ようとすること自体が憚られるような、激しい心の葛藤のぶつかり合いや、肉親同士だからこそ起きてしまう愛憎の冷戦のようなものもたくさん垣間見てしまったりします。
私にとっては、人様のプライベートな空間に招かれて故人様の遺影(中には一度もお会いしたことが無い人)に向かい合掌して読経を捧げることは確かに日常と言えることなのですが、変にこ慣れてしまってはいけないと自らを戒めると同時に、故人様それぞれの人生は決して当たり前ではないのだと言い聞かせています。
ふと新聞の死亡欄などを見た時に、我々が内心に抱く第一の素朴な感想は、
「どこそこの90歳のおばあさんが亡くなったんだな・・・。」
「ああ、まだ若い40歳の男性がガンでなくなったんだなぁ・・・。」
と、あくまでも身内や知人ではない場合の時は大概このような感想を抱くのではないでしょうか。
しかし、それはある意味では大きな誤見とも言えるのです。
その理由は、『世界中の人は、どんな人でも赤ちゃんとしてこの世に生を受けている』という紛うこと無き事実に集約されています。
もっと詳しく述べると、上の例に出した90歳のおばあさんの死は、ある女の子の赤ちゃんの死が90年という時間を経て訪れたという見方ができます。
同じく、40歳の男性の死は、やんちゃな10歳の少年の死が30年という時間を置いて訪れたというふうにも言えます。
つまり、どんな人の人生にも軽々しく纏めてしまうことのできない、重たくて大切な記憶や思いで、さらには「そう在ろう」と行なってきた意志や、「そう在ってほしい」と願ってきた想いが確かにあるということです。
さらに抽象度を上げると、そのように確かに生きてきた人を見守ってきた人々も、また確かに存在していたということがわかります。
ひとりの赤ちゃんがこの世に産声を上げた時、それを待ち望んでいたのは、父母は当然のこと、その赤ちゃんのお祖父さんやお祖母さん、叔父さん叔母さん、親戚の人々、父母の友人、ご近所さん、病院のスタッフなどなど、たくさんの人々の祝福がそこにはあり、赤ちゃんには名前が与えられ、その名前には必ず何らかの想いが込められ、また当たり前ではない何かが託されているのです。
赤ちゃん(ひとりの人間)の成長に比例して見守る人々も増えていきます。
でもその子が立派な大人になる頃から、やがて見守る人々にも順番や順番でない死が訪れ、かつて赤ちゃんであったひとりの人間は、誰かの誕生を待ち望んだりまた誰かを見守る人々のひとりとなってゆきます。
そういうふうにして、人と人との間にある何物かが人の本質であるからこそ人は『人間』と自らを呼んでいるのです。
という訳で話を戻すと、法事の場で故人様に手を合わして祈りを捧げる時、その故人様の後ろにはその故人様を見守ってきたたくさんの故人様が控えているのです。
たとえ血の繋がりがないとしても、昔誰かが確かに強く願っていた想いによって人と人は血を超えて繋がっています。
そういう想いで繫がれた人々をも『ご先祖様』と呼んでもけっして間違いではないと私は思います。
そして私はもちろん皆さんも、遅かれ早かれいつかは誰かのご先祖様になるのです。
また、皆さんや私が大切に想っている人々にも、いつか肉体的な死は確実にやってきます。
でも、当人がその死を迎えた後、何年が経っても尚その人を想い手を合わす人たちの存在は、いつか先祖となった私たちにとって素直に嬉しいことなのではないでしょうか?
自らが弔われることよりも、自らが大切に想っていた人が、誰かに弔われている。
『回りまわって向かう』という回向。
この追善供養の心髄は、上に述べた二重の繫がりを通して、善の和が世界に遍満していくことにあると、私には思えてなりません。
宗教、宗派、観念の違いを超えて、その前に我々は人間なのですから・・・。
南無