久しぶりにフットパスのお手伝いをしてきました。
(後半は画像中心。前半は小難しいこと書いてます。m(__)m)
この日のお客様は村内在住の若い女性お二人。
まだギリギリ熱くはない気温の下、『村の駅ひだか』から地元では通称メダカ池と呼ばれている調整池をめぐる、約2時間強のコースでした。
2時間強と言っても歩調はゆっくり、案内役の高野さんによる植物や虫そして野鳥などについての興味深いお話しに足を止め停め、さらにはコーヒー&霧山茶&オリジナルけんぴのおもてなしを受け、のんびりと日高村の自然を満喫できます。
高野さんの説明を聞いていると、長年日高村にいるこの私でさえ知らなかったワンダーに気づかされ、改めて地元の自然に目を向けることができます。
事実、この日の途中、お客様の一人との会話の中から、なぜ私が村の自然や観光に興味を持っているのか、改めて気づかされました。
それは、
「小さな子供達がこの村で成長するのなら、先ず親の世代の私たちがこの村の良さをもっと知っていなければいけない!」
という逼迫した思いがあるからでした。
大きな視点から話をすると、実は仏教に於いては、他者への慈悲心は先ず己への慈悲心を前提として生まれます。
『私は自分という存在が愛しい』という自覚から、『誰もがそれぞれ自らのことを愛しい』という想像力を働かせて、そこから他者への慈悲が生まれます。
菩薩は修行を積むことによって、最初の自覚である自らへの慈悲よりも、他者への慈悲のほうが次第に上回ってくるのです。
そして、その先に大乗仏教諸派に共通する有名な言葉『自未得度、先度他』(自分よりもまず先に他者を救おう)の地平に至るのです。
この大乗仏教に於いての思考原理とも言うべきものを、私は教育に於いても活用できると考えています。
それはつまり、近年全国の小中学校で盛んに取り組まれている地域学習に顕著ではないでしょうか。
子供たちが自分の育つ場所の自然や産業や地域性(それが田舎であろうと都会であろうと工業地帯であろうと)を知ること、もっと言うと社会科の教科書等で与えられる知識よりも、自分達の五感で吸収する本物の一次情報、それを掴むことこそが地域学習の狙いであるはずです。
やがて子供達が成長して、進学や就職などでそれぞれの地域性を超えた人間関係の構築に迫られる時、そこでこそ地域学習の本領が発揮され、より地に足のついた相互理解が実現されるのだと思います。
言い換えるとそれは、仏教的な慈悲心の発動の第一歩でもあります。
「自分は、これこれこうこうこういう地域で育ってきたのだ。」
「ということは、他の友達もこれこれこうこういろんな地域で育ってきたのだろうな。」
慈悲心と言ってしまうと一気に宗教性を帯びてしまうので、敢えて憐みという言葉に託すとすれば、上で述べたそういうコミュニケーションからの憐みが、何らかの統一的な原理による社会性に勝るような気がしています。
(勝ると言うよりも、より地に足がついたと言うような・・・)
統一的な原理とは、いわゆる観念に還元されるものであり、それが抽象化されたものが国家のイデオロギーであり民族のアイデンティティであり、さらには政治的理念のようなものだと思われます。
私は、国家や民族の壁を取り払うことを望んでいるわけでは毛頭ないのですが、一地方の市井の人々の日常には、地域学習的な一次情報を元に発動される他者への憐みの方が現実の平和を志向する時にはより有効であると考えていますし、現に私が暮らす地域ではそうなっています。
すみません、あまりに理屈っぽくなってしまいましたが、要するに
「レジャー施設一辺倒&一極集中よりも、レジャーの分散化&ハコモノから今目の前にある風景へ!」
というような感じに世の中が少しシフトすればいいんじゃない?って主張です。
話を戻しますが、理屈抜きでメダカ池周辺のフットパスは和みますよ。(^^)/
という訳で、以下画像で~
日高村のフットパスは、この他にも小村神社周辺、シュガートマトの収穫体験、またよりアクティブな観光としては、仁淀川の屋形船、猿田洞ケイビングなど、沢山あります。
さらに、日程が合えば、住職の私自らが大滝山のガイドを引き受けますので、是非お気軽にお問い合わせ下さい。(^^)/
護国寺:0889-24-7244