普段の法事の際、私は読経の前に短い法話をすることにしています。
それが拙い法話であっても、御親族の皆さんの『手を掌す気持ち』を少しでも高めることが出来ればと願いながら、そして実際にはすべりながら(笑)、とにかく法話の機会をなるべく設けています。
まず、私の貧相なボキャブラリーの中の鉄板ネタとしては、やはり『合掌の意味について』なのですが、この話はもうかれこれ7年ぐらい続けていると思います。
この話をするシチュエーションは主にお通夜の開始前で、御遺族や参列者の皆さんを前に焼香の作法と合わせてお話しすることが多いです。
ざっくり言うと、
日本人が当たり前にする『合掌』の形には実は深い仏教の思想が込められている
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仏教が生まれたインドの風習に於ける右手を清浄とみなし左手を不浄とする考え方に基づき、その清浄・不浄の両手は人間一人一人の心を表している
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よって清浄の人間・不浄の人間がいるのではなく、全ての人の心の中に様々なバランスで清浄の部分と不浄の部分がある
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その両方を胸の前で掌すことで、『心改まる』意味をあらわし、その状態で故人様のことを想い祈りを捧げる
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ですから、我々日本人が当たり前にしている合掌は実は仏教徒独特のポーズであり、例をあげると仏教国のタイでも「サワディークラッ」とか言いながら現地の人が合掌されている
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なるほど~(≧▽≦)(聴衆の皆さん)
と、以上が普段話す合掌の意味についての法話なのですが、ある日欧米の映画を見ていると、登場した修道女がおもむろに合掌のポーズで祈りを捧げておりまして、これには面食らってしまいました(笑)。m(__)m
まぁ、やはり人間が真剣に祈りを捧げるポーズは、洋の東西を問わず自然と似てくるものなのでしょう。
あまり頭でっかちな法話になりすぎるのも考え物だなぁ、と自分を戒めながらのそんな私なのですが、ここでもう一つ鉄板ネタの法話をご紹介したいと思います。
この話は、もう200回ぐらいはあちこちの御宅で数を重ねているのですが、話ながら皆さんの表情を伺うと、年齢に関わらず結構反応が良いようです。
それは『ありがとう』の意味についてです。
そもそも法事とは、法のこと、と言われるようにつまりは『仏法に触れる場』のことであるというのが建前であり、僧侶が唱えるお経の意味を聴衆が理解してお釈迦様の教えを確かめ合い、そして参加者全員がこれからも精進を誓いあうというのが本来の法事の目的なのです。
しかし、実際は意味の解らないお経に眠気を促されたり、親戚同士の気の遣いあいに辟易するといったことが現実ではないでしょうか。
しかし、そうは言ってもやはり故人様を偲びその遺徳を讃え、遺族親族がその悲しみを共有しあうという面は確かに重要なことであり。僧侶である自らにキツイ言い方をすれば、この先法事が無くなったとしても、人類が続くかぎりは死者を偲ぶなんらかのイベントは行われていくでしょう。
私が話す『ありがとう』の法話は、まずその故人様を偲ぶという点にコミットしていきます。
そして、そこから仏教の世界の『有難う』へと、大袈裟に言えば昇華させ抽象度を上げていきます。
百千万劫難遭遇(無限に等しい時間の中でも仏の教えに出会うことは難しい)、開経偈と呼ばれ、お経の直前に唱えられる詩ですが、『ありがとう』の由来はここから来ているという説もあります。
つまり、『有難い』とは有ることが難しい、もっと言えば何かを尊ぶ・大切に想うということなのです。
諸外国の言語にも日本語の『ありがとう』に相当する言葉がたくさんあります。
Thank you,merci,СПАСИБО,감사합니다 ,謝謝,شكرا、などなど・・・
でも、日本語以外の『ありがとう』は、ギブ&テイクの概念が根底にあります。それは何かをする者とされる者の構図で、その中でお互いを尊重し合ったり感謝するという概念です。
一方、日本語の『有難う』は有ることが難しいという大変抽象的な概念です。
もちろんここでも、する者とされる者の構図が基本なのですが、それ以上にそもそも何をされたからでもなく、相対の関係を超越した絶対の『有難う』が指向されているのです。
話が小難しくなってきたので、例え話で説明すると、
ある信心深いお爺さんが毎朝太陽に向かって合掌し「有り難や有り難や・・・。」と祈りを繰り返していた
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それを見たある若者は「太陽があの爺さんに何をしてくれたっていうんだ。太陽に向かって毎朝お礼の言葉を繰り返しているなんて変な爺さんだ・・・。」と思っていた
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お爺さんにとっての『有り難や』とは、お礼の言葉を超越して、今日も空が晴れて太陽の恵みを頂ける、畑仕事ができる、「今日も一日を大切に生きよう!」という己への祈りだったのです。
というふうに、『有難う』は自分に向けての言葉でもあるのです。
ありがたや~ありがたや~、と聞くと何か卑しい奴隷根性のようなものを感じずにはおれず、「何がありがたいだ!そんな当たり前のこと!」と近代合理主義の精神を掲げる気持ちもわからなくもないですが、市井に生きる人々の飾り気のない素直な信仰には精緻な論だけではたどり着けない清らかさがあります。
果たして、今どれだけの日本人が、『それが有ることが難しい』と想いながらこの言葉を口にしているでしょうか?
それ、とは、家族友人恋人の存在であり、先人が気づいてきた文化や伝統であり、地域国土の自然であり、そして何よりも己の身体に宿る命。
それらを大切に想いながら生きていくということはなにも仏教に限らず、宗教人種文化を超えて人間としての基本であると思います。
考えてみると、日本人は凄い言葉を毎日お互いにかけあっているのです。
現代における法事は、故人様を偲ぶことを基本に据えながらも、己自身を見つめなおすきっかけの場でもあってほしいものです。
南無