高知で本山修験宗の末寺研修会

本山修験宗の総本山は京都にある聖護院門跡(ショウゴインモンゼキ)です。

その聖護院門跡から宮城執事長と草分庶務主事を香北町永野の大元寺にお招きし、護国寺も含めた高知県下の末寺さらには山伏行者が集い、他宗に比べれば少人数ながらも大変活気ある研修会が開かれました。

今回の主題は、修験道独特の採燈大護摩供について。それも普段の末寺の集まりでは中々深めることのできない経文の意味や法具の観念、さらには本山修験宗の法脈を表す細かな所作にいたるまでを改めて勉強し直すことでした。

そういう訳で、座学は勿論のこと実際に護摩道場で動きを確認しながらの大変濃い研修となりました。

21日と22日の両日にまたがっての日程を通して、私は今までの自分の観念の低さを痛感し、また同時に本山修験宗の有する教義の深さを再確認しました。

 

また、私だけに限らず全ての参加者からの『目からウロコの感慨』を場の空気として感じ取りました。

今回の座学で特に有難かったのは、法華懺法をより修験道の実践に照らし合わせて略儀のものとした修験懺法についての学習でした。

もともと原始仏教で布薩(フサツ)と呼ばれる懺悔と戒律の覚え直しの行為が、中国において今から1500年ほど前に形式化され懺法(センボウ)となり、本山修験宗は現在でも法華懺法の読経を日常の勤行でも行い、また野外では修験懺法の講式で護摩を修しています。

この事は、護摩を修する寺院の中でも大変際立った特色で、我々がこの先も大事にしていきたい本宗の法燈なのです。

今回の研修会が大変有意義なものとなったのは、偏に講師を務めて下さった宮城執事長と草分庶務主事のお蔭と言えます。

宮城執事長のお話は、随所に聴き手の興味を引く興味や笑いが工夫されており、膨大な知識が散漫に放たれるのではなく、何を届けたいのかが明確に点にされており、それをこちらが自ずと辿っていけば線となり、全体像が掴めるというわかりやすさでした。

中でも特に印象に残ったのは、『その人の生き方そのもなのが回向(エコウ)になる』というお言葉でした。

回向とは供養の意味に似た仏教用語ですが、比べると供養が相対するイメージで、回向はより不確定の何物かを沢山介していくイメージで、回り向かって誰かに届く、さらには自分にも返ってくるという意味です。

この回向に関しては、宮城執事長の観念には及びませんが、私も以前から似たような想いを抱いていました。

故人様に対しても生者に対しても、突き詰めれば供養とは、それを発する当人の生き方そのものなのです。

故人様には、それを見守ってもらうだけでお互いの安心を得、生者にはその生き方が何らかの感化を及ぼし、善の和がますます広がっていく・・・。

今回、大元寺の藤岡住職は基より奥様、さらにはお手伝いの信徒様のご協力を頂き、私も大きな回向の和の一部として有難い感化に触れることができました。

この感化を、私の身近な誰かに更にボルテージを上げて届けられるよう、またいろいろ頑張りたいなと心から思えた初夏の好日でした。

南無


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「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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