8月の30日あたりから気温がグッと下がり、一気に秋の雰囲気を感じはじめた矢先でしたが、9月に入り何と今季初の台風が高知に接近しています。
昨日も法事の後の食事の席で、
「自分らが加茂小行きよった頃は、台風でもとりあえず登校して、それから本格的にヤバくなってきたら暴風雨の中を集団下校するみたいな事やったねぇ。(笑)」
と、私より10歳以上年上の先輩が話してくれました。
実際、私が地元の加茂小学校に通っていた頃(90年代前半)も、相変わらずそんなかんじでした。今ほど保護責任がやかましく叫ばれる時代にはまだ入っていなかったので、暴風雨の中登下校した記憶が確かにあります。
それに、昔の台風はもっと勢力が大きかったような気がします。
(こっそり雨戸を透かして外に出た時に、昔本堂の傍にあったイチョウの大木がきしみながら揺れ葉が舞飛ぶのをしっかり記憶しています。)
理論的には現在の方が地球温暖化の影響で台風が生まれる北緯5~20度付近の海面温度が高いはずで、それによって水蒸気の量も昔よりはるかに多く、結果台風の規模も大きいはずなのですが、ここ十数年を振り返っても自分の暮らす地域に於いてはそこまで強い台風が来ていないように感じます。
気象ニュースでよく、「史上最大の超大型台風が・・・」などと警告を発してくれていますが、その割にはいざ直撃しても気抜けするような台風が実際ここ何年かの間にありました。
けれども、楽観できないのが台風よりもゲリラ豪雨の影響です。
今からちょうど2年前の8月、忘れもしないちょうどお盆の時期でした。日高村を襲ったゲリラ豪雨により人家は勿論、地元の工場、商店など100軒以上が浸水しました。さらになんと一週間後、またしても同じようなゲリラ豪雨が日高を襲い、なかでも床上浸水を被った人家は、その後リフォームを強いられるほどの被害を受けました。
また同じく2年前には広島市北部で豪雨による未曽有の土砂崩れがあり、87名もの方が犠牲になっています。
両界曼荼羅に見られるように、密教では自然界に対して慈悲と理知の二つの面からの教義的なアプローチを図りますが、自然は時に想像を絶する無慈悲なものでもあります。
けれども、人間は自然に対して要求したり、交渉したり、ましてや意のままに操るなどということはこの先も不可能でしょう。科学がどんなに進んで、人間の知性が宇宙の謎を解き明かそうとしても、人間に本来備う『問いかけ』は果てしなく無限であり、その無限であるということが、ある意味での限界でもあると思います。
宗教者は特にそうですが、自意識があまりに拡大すると、『我と自然は一体である』という感覚が異常なリアリティを伴っておこります。
しかし、足元をしっかり見つめ『我は人間である』という基本を私は生涯忘れずに持つつもりです。
『愛し敬いながらも決して畏れを忘れることなく・・・。』自然とはそのように向き合っていきたいものです。どうか何事も無く台風が過ぎてくれますように・・・。