なぜ護摩を焚くのか

11月の護摩が終わりました。

この日は壇木の乾燥がいまひとつだったせいか、久しぶりに白煙モクモクの護摩になりました。また、天気も良かったので五色幕を張り、国道33号線を車で通る方々への密かなアピールにもなりました。

五色幕を張った時は、たま~に人がフラッとやって来てくれます。おそらくは住宅展示フェアや餅まきなんかを期待してのことだと思われます。
しかし、「なんだ、寺かぁ・・・」という感じで、近くまで来て確認するとすぐ引き返す人がほとんどですが、護摩を焚き始めて早や6年、その間に3人ぐらいは目立って興味を示され、立ち話をしたことがあります。

さて、私はいつも、『人が寺に行く動機』についてあれこれと考えています。
それは勿論、うちの寺により多くの人がお参りに来てほしいからという大前提があるわけなんですが、当の住職である私がこう言っちゃなんですが、「一般の人が休みの日にわざわざ非観光寺院に行くぅ?(土佐弁)」、なんて正直なところ大きな懐疑を抱いています。

私は現在32歳ですが、同級生はもとより同世代の人々は大変忙しく、月に休みが5日無いというのも珍しくありません。
一週間頑張って働いて、やっと巡ってきた休日は家でゆっくり心と体を休めるか、趣味に没頭するか、家族と一緒にどこかへ出かけて買い物を楽しむかレジャーに行くか、が健全な休日の過ごし方であると思います。

ましてや、観光的インセンティブが皆無の地方寺院にわざわざ意味の解らないお経を足を痺らせながら正座しに行く、なんて奇特な方はまずいないでしょうし、そんな人をただ待ち続けているという受け身の状況は、先に述べた私の6年間で出会った3人の人に出会うより厳しい状況であると、これは自信を持って言えます。

護国寺では今まで時期をずらして3回ほど、檀家様全員に毎月の護摩への参加を促すお知らせをしたことがありますが、それに応える形で足を運んで下さった檀家様は3回を通して僅か数人でした。

私は、毎月の護摩には今のような10人に満たない人々が入れ替わり立ち替わりでお出でくださるのが理想であると考えています。
少々おこがましい例えですが、病院に通うことが当たり前になってしまった人たちの中で一人病院へ行くのを休んだ人が出ると、「あら、あの人今日は来てないけど体の具合でも悪いのかしら?」、なんて心配を病院の中でみんなが本気でしているという、まるで笑い話のようですが、実はこれが笑うことのできない『無明』であり、それが今の時代の宗教の中には盲点として現に存在しています。

寺が果たす役割として、時に現実世界からそれが逃避という形であったとしても一旦離れることで心を癒し、気力を養ってまた現実世界で生きる、その為の場所であろうとするのはおおいに了解されるべきだと思います。

けれども、世間とは切り離された宗教の世界だけに浸かりきってしまうというのは一部の聖者を除いては、やはり不健全であろうかと思われます。
またしても例えるならば、自己啓発やスキルアップを図るためのハウツーをあれこれ学ぶのは熱心でも、いざ実際にそのハウツーを実践して行動しようとしない人にも似ています。

仏教の智慧が実践されるべき場所は、現実の血が通い汗に塗れ飢えに渇いた世界です。

その世界をより良く生きる事に於いての、活かされるべき智慧や、自信や、安心を少しでも提供することが出来れば、或いはそのきっかけになれれば・・・。

この日も、御家族の健康を願ってのお参りの方がおられました。
檀家様はもちろん、それ以外の宗教が違う方でも、護摩の炎に清められた祈りに御家族友人さらには自らの夢への熱い想いを重ねていただきれば、修法者としてこんなに嬉しい事はありません。
『祈っているのは私だけじゃないんだ!』、と気づかされる時、そこには自然と手を掌わしてしまう清らかなSomethingがあります。

このサイトができてもうすぐ一年経ちますが、最初に立ち上げたコンセプトは今も変えるつもりはありませんし、むしろこの方向性への確信が増すばかりです。

一地方寺院である護国寺の挑戦は来年も続いていきます。

あっ!こういうことは来月の年の暮れに書くべきでした。(笑)

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「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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