祈りは聖者の背中から

去る11月22日、福岡県の東長寺にて、ダライ・ラマ法王の御法話を拝聴させていただきました。

まずもってこのような有り難い機会に巡り合わせていただけた事を、ご縁のある関係者の皆様に心から感謝しております。

当初は自分が感じたことのあれこれをこの場で書き連ねていこうと考えていたのですが、拝聴して数日が経ってみてもそのような気分が一向に湧き上がって来きません。

そういう状況で考えあぐねた結果、自分の感じた事は多分に自分の言いたい事であって、それを後からベラベラと述べることはダライ・ラマ法王の御教えを損なうことになるのではないかという言い訳めいた考えに落ち着いてしまったので、ここではただ三つの事だけを短く語りたいと思います。

一つ目は、
「般若心経などのお経をただ唱えるだけではなく、お寺という建物を利用して広く一般の人々にその中身について解説して下さい。」
という、これからの日本の僧侶に向けて言われた法王様の御言葉。

二つ目は、奇跡的に握手していただいた法王様の掌が、私の予想に反して非常に柔らかかったという素朴な驚き。

三つ目は、御法話に先立って営まれた、この数年の間に日本各地で起きた自然災害で亡くなられた方々に対しての読経の際、本堂の左手前奥から長らく拝見させていただいた法王様の御背中に私が覚えた強烈な既視感・・・と言うよりも激しい懐かしさ。

その懐かしさは、僧侶として今の私があることのかけがえのない因であり、また私の生涯に亘るであろう大切な拠り所なのです。

ある種の人々はその事を『オーラ』と呼ぶのかも知れませんが、私にとってのその『感じ』とは、空を満たすものがただ空であるように海を満たすものがただ海であるように、もっと言うと赤ではなく白であるとか、いや白ではなく青であるなどの表象や分別の次元を超えて、情動を直に揺さぶられるイフやオアの無い確信に近い『ただそれがある』という『感じ』そのものなのです。

私は、「ああ、やはりそうなのだ・・・。」という得心に感じ入りながら、法王様がお祈りされる後姿にひたすら手を掌せていました。

 

南無


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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