~始めに~
この修行記は、平成29年10月6日から9日にかけて行われた大和修験會による冨嶽両界峯入修行と銘打たれた、海抜0メートルから富士山の頂上に登り、そして山梨県の精進湖へと出る修行に参加した私が書く、あくまで個人的な感想文です。
大和修験會とは、宮崎県都城市に御座す龍禪院のご住職であられる宮元隆誠氏が会長を務められていて、修験道の修行として富士山へ登拝することを主とした、超宗派でありながら一般の方々にも広く門戸が開かれた団体です。
宮元会長と私は、同じく聖護院門跡の末寺として大先輩と後輩の関係になります。
今回、改めて宮元会長の謦咳に接しながら、私は一修験者の初心に立ち返って修行をさせていただきました。
富士山に興味がある方、修験道や山伏に興味がある方、また修行そのものに興味がある方、そして何か熱い本気を感じたい方、
それぞれいろんな方々に読んでいただけたら幸いです。
以下大変な長文になりますが、等身大の自分で書いてみました。
(主語が僕で、デスマス口調じゃないのはカッコつけてる訳じゃありませんので、悪しからず。)
プロローグ
富士山での修行を終えて高知に帰ってきた次の日、僕が3歳の長男を連れて訪れたのは越知町にある横倉山だった。最も頂上に近い第三駐車場に車を停め、長男を肩車して標高800mの山頂を目指した。
そんな感じで、富士山から受けた熱は未だに収まらず、足の甲や腰の痛みなどの疲労を上回って尚、僕の心を突き動かしてくる。
僕は今、日焼け止めを塗っておかなかったせいで斑に剥がれ落ちてくる自分の額の皮を気にしながら、普段の日常の歩みを少しずつ取り戻している。
前日
静岡県に来ること自体が初めてだ。
もうかれこれ30年近く、新幹線は京都までしか乗ったことがない。
ましてや、日本一高い富士山など僕には偉大過ぎて、いや正直に言うと世間で当たり前の存在過ぎていて今まで逆に縁が無かった。
数年前から聖護院で宮元会長にお会いする度に富士山の素晴らしさは聞いていた。
そして同行の誘いを頂いていたのが今回僕が参加した大きな理由ではあるが、実際は馴染みある大峰奥駈修行とはまた違った山修行を一度は体験しておかなければという、自分の経験値を上げる為の姑息な動機で富士山修行の機会を窺っていたのだ。
しかも僕は長女の運動会を蹴ってこの修行に参加した。
修行は誰かに課されてさせられるものでは勿論ないが、自分勝手に何時でも入れるものでもない。
今回の冨嶽両界峯入修行の趣旨を理解し、快く見送ってくれた家族への感謝は決して忘れてはならないと、小さな車窓に一瞬で現れては消えていく何万軒もの家々を眺めながら、家庭という日常への未練を募らせていた。
車内アナウンスの声で我に返ると、こだまは新富士駅に着こうとしていた。
1日目
田子の浦の海岸、堤防の上、学校に向かう中学生が何人も自転車で通り過ぎる。
気温もそれほど寒く無く風もない朝だが、通り過ぎる自転車が巻き起こす微風を尻の素肌に感じている僕は、つまりふんどし一丁なのだ。
総勢14名だからこそ、縁もゆかりもない田子の浦の海岸でこうしてふんどし一丁でなんとか気合いが入ったフリをしていられるが、その実、内心は落ち着かない羞恥に乱れている。
漂流物の多い砂浜で、これから4日間歩く足裏を決して傷つけないようにと恐る恐る裸足になった。
波打ち際に一列、そして海を背にして、大き過ぎてどれ程大きいのかよくわからない富士山を見やりながら、僕はこの修行の為に数か月前から地元の大滝山で練習し直してきた苦手な法螺貝を吹いた。
まずまずの音色に少しの安堵を感じながら、同時に遙か前方に霞む富士の山頂に対して、果たしてたどり着けるのだろうかという当たり前の不安も感じた。
いや、何としても歩き続けるのだと自らを奮い立たせ、ふんどし一丁の羞恥心にも慣れた頃、僕の発心は定まった。
そしてグッと丹田に力を込めて腹打ちで海水に飛び込んだ。
水は全然冷たく感じなかった。
水垢離の後、鈴懸と呼ばれる修験道特有の装束を急いで着用。予定より30分遅れのスタートでそこからすぐ近くの富士塚に向かう。
富士行者が道中の安全を願って行なう古からの習わしで、僕も富士塚にひとつ石を積んだ。
宮元会長から本日最初の法話があり、我々の生死のその実相は表裏一体であることが説かれる。
修行と言うと、だいたい思い起こされるのは非日常や出世間、ともすれば大怪我や体調を崩したり、最悪の場合死に至ることもあるのではないかと心配されたりもする。
でも冷静に考えてみると、玄関を一歩出たところで交通事故に遭うかもしれないし、快適なベッドの上でも脳の血管が突如破裂することもあるかもしれない。
また肉体的に過酷な労働環境で四肢を失う恐れもあれば、ストレス過多や激務の末に過労死という現実もあるわけで、何も修行者だけが命を懸けているわけでなく、皆それぞれいろんな事情を抱えながら、一見何気なく見える日常を必死で生きているのだ。
だからこそ、この一度しかない人生はやはり本気で生きなければいけない。その本気さを以て、人生の縮図とも言えるこの山修行で何かに気づき、起死回生をはかって再度、各自の日常をより豊かに生きていけたら・・・。
宮元会長の法話を深読みさせていただくと、恐縮ながらそのような旨が説かれていたように思う。
初日のこの日は昼過ぎまで富士市吉原商店街を回り、数十件に上る様々な商店で一軒一軒御祈願をさせていただいた。
大和修験會による毎年のこの御祈願は、地元ではすっかり定着しているようで、皆さんお仕事の手を止めて店先まで出てきて下さる。
数珠と錫杖の音声によって力強くも軽やかなリズムに乗った般若心経が響く中、宮元会長によるお加持を老若男女が受けて下さる。
昨年の大和修験會オリジナルのTシャツを着込んで、一心に手を掌せて御祈願を受けて下さる方々も大勢いて、今から富士の頂きを目指す我々の方がエネルギーを頂いてしまっているようで些か申し訳ない。
去年の赤ちゃんは一年経つともう歩けるようになっている・・・。
御祈願の途中で、かぐや姫伝説の眠る日吉浅間神社に参拝させていただいた。
この神社は正に文字通り社寺であり、現在の本殿は明治初期まで東泉院と呼ばれる密教寺院の本堂があった上に建てられている。
御祭神はかぐや姫であり、それも世間一般で知られている月へ帰っていく話ではなく、かぐや姫は富士山に登り富士山そのものの祭神となったという伝説が伝えられている。
ちなみに、富士山頂に御座す浅間大社奥宮は本宮浅間大社の奥宮であり、本宮浅間大社の由緒では富士山の御祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)である。
さらに、修験道から見た富士山の本地仏は大日如来であり、この日の最後にお参りさせていただくのは興法寺大日堂という寺院である。そしてこの大日堂を挟んで今晩の宿となる村山ジャンボと聖護院ゆかりの村山浅間神社があり、まさに神仏習合の歴史を今に伝えている。
日吉浅間神社ではお祓いと御祈願の後、宮司様からご丁寧なお話を頂いた。富士山の歴史的多面性を改めて思い知らされて、気持ちもいよいよ高まってきた。
残り数件の御祈願を終えて少し遅めの昼食を頂くと、何だかどんより曇りになってきたが、ここからが山岳修行としての峯入りの始まりである。
昨晩、同泊させていただいた宮元会長が「この一軒一軒の御祈願で、そのお店が本当に商売繁盛になるように心から真剣に祈る。それによって不動明王と一体となる準備が整う。」と仰っていた。
聖護院で毎年年明けに行なわれる寒中托鉢を思い出しながら、天気はもはや問題ではなく、問題は自分の心象を晴らす事だったのだと、先ほどの御祈願の重要性に気づいた。
そして我々はかぐや姫ミュージアムに束の間立ち寄り、その後天気予報どおりの土砂降りの雨の中、黙々と村山古道へと足を進めた。
この日アスファルトの上を歩き続けてかなりの時間が経つ。
この日まで、標高247mしかない大滝山ではあるが、そこを15kgのリュックを背負って何度も往復するなどのトレーニングはしてきたものの、固いアスファルトの上を薄い地下足袋で長時間歩き続けるという過酷さを僕は甘く見過ぎていた。
しかも、苦手な法螺貝の音色を少しでも安定させようと、体のぐらつきをなるべく抑えるために足の甲に不自然な力を加え過ぎてしまい、顔には出さないもののかなりの痛みが患部に広がる。
そこへきて降ったばかりの冷たい雨が、幾筋もの小さな水流となって緩やかな上り坂の道の上を斜めに流れている。
既に地下足袋の中までぐっしょりと濡れているとはいえ、少しでもその小さな水流を避けて歩いてはみるが全ては避けられない。
夕暮れと共に気温も下がり、海抜も少しは上がっているのだろうか?、両足の甲の痛みに水流の冷たさが増々しみる。
辛い・・・。
痛みを庇うために、元来人より柔軟であるはずの足首の可動域は狭まってきているようで、このままでは明日からの山修行が危ぶまれるのは当然である。
僕の本格的な山修行はまだ通算10回を超えていないという浅い経験値ではあるが、まだ一度もリタイアの経験は無い。もしやこの初めての富士山を目前にして、いや文字通りその裾野に触れただけで、登拝は叶わないのか?
無言で歩きながらも心が不安に染まりそうになった時、宮元会長の「不動明王になりきる!」という言葉の意味を考えていた。
その言葉から、いきなり不動明王になれなくても、先ずはこの痛みになりきってみようという考えが閃いた。
痛みを有るべからずものとしてではなく、痛みも僕の一部であり、この痛みと共に富士に登るのだとという発想に転換してみた。
すると、不思議な事に一瞬で痛みが楽になった。痛みは確かにそこに有り、確かに感じることができるのだが、それを認めることができた途端、痛みの感覚は問題では無くなった。
そう、僕は痛みが引き起こす自分の心象に捉われていたのだ。
また一つ、小さな空(くう)を勉強させてもらえた。
2日目
できる限りのストレッチとセルフマッサージをして床に着いたにも関わらず、足の甲の痛みは取れていない。
けれどもこの痛みの問題に関して、ある種の達観を得た僕には頂上まで行けるという確信があった。
あとはひたすらに歩くのみである。
何よりも有り難かったのは、鈴懸・山袴・地下足袋などの装束一式がカラッと乾いているということ!
実は昨夜の夕食の後、宮元会長自らがサポート役の奥様と共に参加者一同の装束一式を麓のコインランドリーで乾かしてくれていたのだ。
僕が経験した山修行でこんなことは本来在り得ないことである。会長自らが参加者一同の修行着を乾かす。しかも自らの睡眠時間を削ってまで・・・。
本来ならば宮元会長よりも下座であり、また初参加でありながらもスタッフ的な立ち位置である僕こそがコインランドリーに行くべきなのだが、
「よく英気を養っておくように。」との宮元会長のお言葉に甘えてしまい、僕は申し訳なく先に休ませていただいた。
一昨日の晩も、とっくに日付が変わっている深夜まで事務仕事の詰めをなさっていた会長は、昨晩も数時間だけの睡眠にも関わらず、全く疲れた顔をされておられずいたって穏やかに我々の士気を高める法話を出立の前にされていた。
会長と同じ聖護院末の僕でさえここまで驚愕しているのだから、他の参加者の方々の目には宮元会長はもはやこの世のものではない超人に映っていたことだろう。
ただ一つ、間違えて欲しくないのは、宮元会長は浅はかなホスピタリティで皆の修行着を乾かしたわけでは決してないという事だ。
装束一式がびしょびしょに濡れている状態で、この日の宿泊場所の雲海荘(富士宮ルート6合目にあたり海抜2500m)を目指すと、後半に軽度の低体温症を起すリスクが高まるし、また更に登頂を目指す3日目にまだ濡れていると、そのリスクはいよいよ高まってくる。
1日目の夜の時点では、山頂は昼間でも氷点下になり、また積雪と降雪も十分考えられるという天候状態だった。
それに今回、2日目の宿泊場所である雲海荘は、当初に予定していた宝永山荘が諸事情により宿泊不可能となり急遽対応して下さった山荘で、大和修験會としては初めての利用になるらしく、衣服を乾燥させる設備の情報なども我々にとっては正確に把握できかねる状況であり、この1日目にずぶ濡れになった装束一式を乾燥させるか否かという選択が、後々でかなり重要な分岐点になると予想されるのだった。
そこで宮元会長は、いざ困難な天候の中での登頂となっても、現時点でできる限りの事をして少しでもリスクを下げるための行動を取られていたのだ。
一日目を終えた参加者一同の体力を回復させ、装束一式を乾かして明日に備えるという行動を自らが一身に請け負って・・・。
「修行をさせていただく」という、私が繰り返し述べている感慨の理由は、この宮元会長の計らいや実践を間近で体験したことが大いに関係している。
昨夜までの予報とは打って変わって、天気もまるで霊瑞のように好転していった。
いや、確かに霊瑞は起きていたのだ!
昨日の夕方の時点では、この日の午後から晴れるという予報だった。(実は一昨日の時点ではこの日の夕方から晴れるとの予報だったので、既に好転してはいたのだが。)
それが2日目の朝になって、9時頃には晴れるという予報へと更に好転し、しかもなんと我々のスタート地点であった村山浅間神社付近では実際ほとんど雨は止んでいるという有難い状況だった。
村山古道を進んで一時間程、森林の中に入る前に、富士山の山頂部を最後に拝める場所があった。
その時の富士山は、少しずつ雲が晴れてもうしばらくすると全体が見えるようになる感じで、その姿はまるで龍の巣という巨大な積乱雲の向こうにある天空の城ラピュタを彷彿とさせた。
奇跡的に天気が好転していった2日目、ラピュタへの道が開けるように、富士への道が開けていったのである。
日本一高い山というあまりにも有名過ぎる富士山の事を、失礼ながら僕は本当に何も知らなかった。
森林限界を超えて、ただ溶岩が砕けたガレ場が延々と頂上まで続いている単調な山だろうと憶測していた。
3日目に吉田ルートを下る時、その形容はあながち間違いではなかったとも正直思ったのだが、僕にとっての正式な富士山との初対面は、やはり村山古道ということにしておきたい。
道の両脇に広がる原生林の苔たちは生き生きと輝いていて、その美しい風景の中には多様な生命が複雑に結びついていることが一目で感じられた。
大日如来は宇宙万物の理を表すと言われるが、なるほど富士山という生命体を胎蔵生の曼荼羅として捉えることで、その中心とも言える山頂部は正に中台八葉院。
古からの先人たちが、富士山とその周辺の自然の中に曼荼羅の世界観を投影したことが、2017年の現代に於いても、この村山古道を一度通っただけで体感され納得できたように思えた。
ところで、僕の足の甲の痛みはどうなったのかと言うと、これが昨日と同じく全く痛みに捉われずに歩けてしまったのだった。
科学的に解釈すると、堅いアスファルトのほぼ平らで単調な緩やかな登りから、自然の土と落ち葉と石を踏みながら歩く古道では、足への負担が全然違うのだ。
やはり森林地帯の森を歩く時は地下足袋に限る、特に僕はエアーが入っていない方が好きだ。
海抜500mの村山ジャンボから海抜2500mの雲海荘まで、2日目は実に2000mの標高差を上がる、数字で見るとハードな日だったが、実際ハードではありながらも、緑豊かな原生林から森林限界までじっくりと富士山の多様性を堪能できる贅沢な行程であったとも言える。
何はともあれ、6合目の雲海荘まで我々は1人の脱落者も無く辿り着き、少し量が多めの温かいカレーを夕食にご馳走になり、そう言えばまだお互いに自己紹介をしていないことに気づき、食後になってようやく初めての自己紹介をしたのだった。
この時の自己紹介は、普段良くある予定調和のものではなく、お互いの自己効力感が高まりあった中で成されるとても実りあるものだった。
お茶を何倍もお代わりしながら、我々の自己紹介は1時間以上も続いたのだった。
雲海荘からは富士市と富士宮市の夜景が一望でき、昨晩雲の上で中秋の満月を迎えた月が、もう本当は闇に溶けてしまっているはずの海から我々が歩いてきた道を、微かな光を照らして浮かび上がらせてくれるような気がした。
この日共に歩いた我々にしか見ることができない祈りの道を・・・。
3日目に続く~!(^^)/