いよいよ紅葉シーズンも本番を向かえる11月6日、一泊二日の日程で高知県仏教青年会による研修旅行に参加してきました。
1日目は當麻寺と興福寺、そして2日目は東大寺を半日かけてじっくり拝観させていただきました。
(ちなみに昨年は高知県仏教会の研修旅行に参加しております。)
奈良と言えば誰もが修学旅行を連想するほど、そこは多くの日本人にとって親しみのある場所です。
同じ古都でも、京都より景観がゆったりとした印象を与える奈良は、実は修学旅行より一人旅に向いている場所と言われます。
古い石畳の上を歩きながら、周囲の優麗にして壮観な日本建築の数々に目を奪われていると、この国の歴史を刻んできた先人達のいろんなドラマに想いを馳せることができます。
お叱りを受けるのを承知で敢えてざっくりと言わせてもらうと、奈良の中心地はまるで藤原氏のメモリアルパークのようです。
645年の乙巳の変に端を発した大化の改新から現代まで、日本の政権をめぐる渦中の只中に常に居続けたのが藤原氏なのです。
その藤原氏の祖は、中大兄皇子と共に大化の改新を成し遂げた中臣鎌足その人であり、中大兄皇子は後に天智天皇となって中臣鎌足に藤原の姓を与えます。その後、藤原氏は藤原不比等を始めとした超優秀な官僚を数多く輩出しています。
現代まで続いているというその理由は、いろんな経緯があって藤原氏に縁故が深い五摂家(ごせっけ)というものが時代と共に次第に形成されたことにあります。
例えば、伊勢神宮の前の大宮司は五摂家の一つである鷹司家の鷹司尚武さんが務められていましたし、また93年から94年にかけて内閣総理大臣を務められた細川護熙さんも五摂家の中心的家柄である近衛家の血を引いています。
そんな訳で、少し話を広げ過ぎたかも知れませんが、當麻寺は藤原鎌足の玄孫(やしゃご)にあたる中将姫と大変に関係が深く、また興福寺は藤原鎌足の夫人である鏡女王が夫の病気回復を願って創建されたと伝えられています。
他にも、東大寺と境内を隣にした奈良公園の奥にある春日大社は藤原氏の氏神を御祭神として祀る神社として有名です。
ここまで滔々と述べているかのようですが、上に述べたような触りだけの知識が普段から私の頭にあるわけでは決してなく、全てこの研修旅行に臨んで俄かに仕入れた知識を、今ウィキペディアを一々参照しつつ確認しながらこれを書いています。(笑)
私は本当は勉強熱心ではなく、せっかく現地を訪れて実際に見聞を広めて来るのですから、ベーシックな触りの知識を頭に入れたうえで臨むと、感動はひとしおに味わえるだろうという欲深さが自分にあるだけなのです。
當麻寺では、中之坊の長老様自らが當麻曼荼羅の絵解きをして下さいました。
當麻寺は真言宗と浄土宗、その二つの宗派が二宗共存という形で寺の運営を盛り上げています。
我々高知の仏教青年会も様々な宗派の若手僧侶が集まって、それぞれの違いを活かしながら互いに研鑽を積んでおります。
その甲斐もあって、絵解きが終わり中之坊の長老様が御退出された後、同行した浄土宗や浄土真宗の僧侶の方々が互いに補足をして下さり、私一人で絵解きを拝聴しただけでは解りきらなかったであろう箇所に、更に説明を加えて下さいました。
こういう経験は、やはり超宗派の仏教青年会ならではのものであり、これも大変有意義な研修の要となりました。
(※當麻曼荼羅とは、藤原の中将姫ご自身が体験された夕陽の中に現れた阿弥陀如来の神秘体験を基底として、観無量寿経の内容を忠実に描写した本来は観経曼荼羅と呼ばれるもので、密教の曼荼羅とは関係がないものです。)
次に興福寺では、現地の専門のガイドさんから詳しい説明を受け、明治初期の廃仏毀釈の嵐が如何に激しく南都の古刹を襲ったかを改めて知りました。
かの有名な阿修羅像にもま見えることができましたが、なぜこの阿修羅像だけが特別に多くの人の心を惹きつけるのか?、その理由は正直今の私にはわかりませんでした。
明くる日は東大寺、そしてその境内にある二月堂と法華堂(三月堂)を拝観しました。
東大寺の大仏殿には、日本人なら誰もが知っているあの奈良の大仏さんが鎮座しているわけですが、東大寺が大好きで私もかれこれ10回近く来ているにも関わらず、何度訪れてもこの大仏殿のスケールの大きさには圧倒されます。
なんと、2011年まではこの東大寺大仏殿こそが世界最大の木造建築として公式に認められていたそうですが、建築資材を加工する技術の飛躍的進歩によって、数字の上ではその一位の座を明け渡したそうです。
それでも、電動カッターやクレーン車などがない300年以上前に全くの人力で再建された現在の大仏殿を実際に目にしての感動という事で言えば、おそらく永遠にこれを超える日本建築はないでしょう。
御承知の通り、日本には二つの大仏があって、それは奈良の大仏と鎌倉の大仏ですが、鎌倉の大仏は衆生済度の為に少し猫背で前のめりになった阿弥陀如来、そしてこの東大寺の大仏は宇宙の理を表す廬舎那仏(ルシャナブツ)です。
そもそも東大寺の歴史は、聖武天皇が国家安穏を願って、743年に紫香楽宮(シガラキノミヤ)と呼ばれる現在の滋賀県甲賀市でその造営の詔(ミコトノリ)を出されたことから始まります。
その2年前には国分寺と国分尼寺の造立が既に全国に向けて命じられており、今でも全国に残る国分寺の歴史も、同じく聖武天皇の詔が始まりなのです。
そして東大寺の建設場所は結局現在の奈良の場所に落ち着いたわけですが、その場所には実は既に金鐘寺(こんしゅじ)という山寺があり、そこでは良弁(ろうべん)という修行を積んだ僧侶が華厳経(けごんきょう)の研究と普及に努めていたそうです。
そして詔を受けた良弁自身も東大寺と大仏の建立に尽力し、その功績を讃えて初代の別当(東大寺の住職)に任命されています。
仏教に深く帰依していた聖武天皇が特に信仰を注ぎ、また良弁も熱心に研究していた華厳経は、中国の天台宗の実質的開祖である智顗が「お釈迦様が悟りを開いた直後に説かれた深淵な教え」とも評されたように、正に悟りの内容を示しているとされ、奥深い修行の階梯が難解な哲学とともに説かれています。
あまり教義的な話はここでは控えますが、420年と700年頃にそれぞれ漢訳された六十華厳経と八十華厳経があり、どちらもほぼ内容は同じようですが、後から漢訳された八十華厳経がより豊かな原文に近い翻訳がされているそうです。
どちらの華厳経にも入法界品(にゅうほっかいぼん)と呼ばれる章が最後にあり、そこでは主人公である善哉童子の求法の旅が描かれています。
善哉童子は総勢53人の菩薩や船乗りや遊女や王様や小さな少女などなど、様々な人々に教えを受け、最後には文殊菩薩に続いて、白象に乗った普賢菩薩から究極の教えを授かります。
それこそが、『一即一切、一切即一』という、つまり『全ては一つである』という教えです。
ちなみに釈迦三尊と呼ばれる仏像の配置の一つとして、中心にお釈迦様、向かって右に文殊菩薩、向かって左に普賢菩薩という形式が有名です。
そのことを踏まえると、入法界品に敢えて登場しないお釈迦様は、その悟りの教えが究極的に昇華された廬舎那仏という存在で暗喩されていて、お釈迦様の悟りに至るまでの最後の菩薩が普賢菩薩であるとも考えられます。
さらに、真言宗や天台宗の密教に於いて、その教主として位置づけられる大日如来は、この東大寺の大仏であるところの廬舎那仏を、さらに巧緻でより現世利益的側面から再解釈したものと言えるでしょう。
そして、この究極的な一元論とも言える一即一切の哲学は、遡れば仏教形成以前のヴェーダーンタ哲学に端を発し、また近現代のインドが輩出し広く欧米人にも受け入れられた、ラーマクリシュナやラマナマハルシなどの哲学的聖人の教えにもすんなり馴染むものであると、あくまで私は解釈しています。
東大寺大仏殿では、職員の僧侶の方が丁寧に解説をして下さり、また廬舎那仏の真下、蓮弁に触れられる距離(もちろん実際には触れちゃダメ)のところまで特別に案内して下さいました。
その案内の僧侶の方曰く、聖武天皇は人民はもちろん広く家畜や野生動物や植物そして環境までをも、すべてを一切衆生として捉え、そこに慈悲の眼差しと思い遣りを傾け、日本国民全員がこの一大事業に関わることで、正に華厳経の世界を体現しようとされたようです。
現代の日本の政治にあれこれと口出しすることはしたくありませんが、昨今の国会は劇場に成り下がり、またいちいち些末な問題を声高に取り上げて喧しく騒ぐ外野が日々メディアを跋扈しています。
当時疫病が蔓延する最中にありながらも大仏建立という壮大なグランドピクチャーををぶち上げた聖武天皇。
現代人の我々は今、人々が不安に煽られるこんな時代だからこそ、聖武天皇を始めその発心に共鳴した多くの我々の御先祖様に想いを馳せることが大事なのだと、私は切に思います。
月並みな言葉ですが、
大和魂万歳!!
東大寺ではいつも元気を貰います。
南無
(※ここで掲げている画像のほとんどは、今回同行させていただいた同じ高知県仏教青年会のメンバー、仁淀川町名野川の法輪寺様が撮影なさったものを頂きました。)