毎月28日、9時と15時には護摩を焚いています。
いや、本来は修するというべきなのでしょうか・・・。
修験の先輩方をはじめ、この道の知識と経験を積まれている方々の中には、
「焚くではなく、修するのだ。」
と、言葉のディテールにこだわる方が少なくありません。
焚くとは広義の意味で、火を焚く、風呂を焚くなど、その行為の物質的な側面を強調する向きがあるようです。
対して、修するという言葉は精神的でかつ宗教的な意味を帯びています。
改めて、『修』という漢字を辞書で引いてみると、
①おさめる。(正しくする、習う)
②おさまる。(正しくなる、ととのう、りっぱになる)
③長い。
④よい。すぐれている。
などの意味があり、解字には
洗い清めるの意味。攸(ユウ)に長いすじとなって流れる水の意味があり、通じて、長いの意味をも表す。
とあります。
なるほど、『修証一如』(修行と悟りは本来一つのものである)という曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉もあることから、やはり護摩に於いても焚くではなく修するという言葉の方が適切であるような気がします。
しかしながら、いまいち私には、修するという言い方に統一しようという気があまりないようで、以前にもこのブログ上で、『護摩を焚く』という表現をはばからず使っております。
私の護摩に対する観念の浅さ故のことなのでしょうが、どうしても火を焚くという物質的側面、つまり炎の神秘性、さらにはその媒介的意味について、私はいまだに捉われているように思えます。
意外な事に原始仏教では護摩は否定されています。(笑)
お釈迦様がカーシャパ三兄弟という拝火教の教団を折伏するという逸話も残っていて、その教団のシンボルでもあった龍を封じ込めたというブッタガヤ近郊のとある井戸にも、私は2010年の12月に実際に入ってきました。
インドで密教が誕生する頃に護摩の形式は復活するのですが、以後日本に伝わって修験道にも取り入れられた護摩は現世利益的側面が多分に強調され、それが本来有しているはずの『体感』という側面が二の次になっている気が個人的にはしています。
何が言いたいかというと、厳密には私は護摩を体感しているのであり、それは実は能動的なものではなく、私にとっては受動的を越えて相互的なものである気がします。
そして、こちら側から認識できるゲート(入り口)的なものが炎であり・・・。
どうにもならない悲しみや不条理、それがあるからこそ祈りがあり、祈りは体感の中にある気がしています。
体感とは、こちらの情念や願意を一方通行でぶつけるものではなく、能動1の受動9ぐらいの相互的なものであり、あまり気負うものでもない気がしています。
そういう訳で、まどろっこしい表現を構図にすれば、
私にとっては、火を焚く→体感する→結果、護摩を修する。みたいな感じかなと・・・。
なんだか、弱々しい随想になってしまいました。(笑)
高知の田舎の一地方寺院でそんな能書きを垂れながら6月の護摩も終わり、今年も早や半分が終わろうとしています。
南無