今問われるべき多様性、或いは多元的世界とは?

2020年4月20日現在、僕が住んでいる高知県の日高村を含め全世界中がコロナショックの渦中にある中で、ここ数日間の中で僕が触れた情報や、さらに全国規模の非常事態宣言が発令される以前に友人と会って話して気づかされた新たな視座なんかが、ぐちゃぐちゃに絡み合い頭の中でずっとモヤモヤとしていました。

恥ずかしながら普段はろくに読んでいない新聞にも、ここ数週間は目を通していると、今日の朝刊に自分の考えている事とかなりリンクする趣旨が法哲学者の仲正昌樹さんからの寄稿の中に目に留まり、さらにまた別の友人がSNSでシェアしていた医療人類学者の磯野真穂さんへの4月2日時点でのインタビュー記事が目に留まりました。

という訳で、ただの一地方寺院の住職である僕も、今回は仏教者という立場を敢えて意識せずに、ただの市井に生きる35歳(妻子持ち)の視点で、自分の頭の中でモヤモヤしていたものにようやく一つの暫定的な着地点が見えてきたので、この場で吐き出しておきたいと思います。

先ず、最初にお断りを入れておくと、以下の内容はあくまで僕個人のただの雑記です。

今、日本国民の一人として、或いは仏教者の一人として、何かポジティブな情報発信をしよう!なんていう高尚なものではなく。ただの戯言と思って興味のある方だけお読みください。(かと言ってネガティブなものでもないと思います(^^)/)

 

さて、このコロナショックの一番大きなそして厄介とも言える要素の一つに、新型コロナウイルスそのものの特徴を前置きとして避けては通れません。

その厄介な特徴とは、(細かな数字は敢えて取り上げませんが)重篤化する人と軽症で済む人、また軽症と判断された人でも本人にとってはその症状の重さが(体感で感じるしんどさ)が各人で異なる事、更には本人の体感であまりしんどさも無く軽症であった人が突如として劇症化を起し重篤になるケースがあり、中にはサイトカインストームと呼ばれる過剰な免疫反応によって肺以外の他臓器への不全を起こすケースも稀にあるということです。

そして、上で述べたそれらの特徴が基本的には、高血圧や糖尿病などの基礎疾患を持つ人や高齢者で重篤化しやすく、また、未だにその原因とプロセスがよく解明されていないこと。そしてそれが健康体の若者でもあっても稀に重篤化を起こすという点です。

加えて、社会学的に見ると(←言葉は適切ではないかもしれませんが)実はこれが一番厄介な要素と思われるのが、『感染しても無症状、或いはほぼ軽症で自覚症状が無い人の割合がかなり高い』という点です。

と、ここまでは皆さんも毎日嫌というほど垂れ流されるニュースで重々承知のことと思われますし、だからこそのSTAY at HOMEが世界中で要請され、また個人個人が「もしかしたら、わたしも元気なまま感染していて、みだりな外出時に他の人に移してしまったり、また自らの感染を自覚しないまま、身近な大事な人を感染と重篤化のリスクに晒してしまわないように、とにかく自粛と手洗い&うがいを心掛けよう!」という取り組みが本当に熱心になされていて、それは私の実の周りでもヒシヒシと感じる事です。

さて、その厄介な新型コロナの特徴を前置きとして、その取り組みと反比例して増大していくのが、これも皆さんご承知の通り経済的ダメージです。

特に、旅行業、イベント関係、舞台・演奏のフリーランスの方々、飲食、リラクゼーション、等々、もちろんこれだけにとどまりませんが、アベノミクスの延長によって大企業は大手銀行と手を携えてなんとか持ち堪えれても、中小企業や個人事業主の方々は経営的瀕死状態に直面しています。

このコロナショックによる経済的な混乱に対しての政府からのバックアップの方針を僕も今から振り返って数週間前から追ってきていたのですが、当初の困窮家庭に限っての30万円給付金という最低限のセーフティーネット&中小法人個人企業への上限200万円(法人)100万円(個人)そして後はあくまでも『貸し付け』という方針にSNSを中心にかなりのバッシングが起こり、そこへ来て医療現場からの強い要請が後押しとなり、政府は重い腰を上げて首都圏や人口集中都市に限っての非常事態宣言を発令し、その間に当初からの世論の反発をやっと真に受けて(おそらく官僚たちは想定内だったと思われますが)そこからなし崩し的に全国規模の非常事態宣言へと拡大しました。

そうなると、高知県の知事も含めて全国の各県下への休業補償や給付金を出し渋っていた知事達も、県下への財源が配分されたことでやっと面目を保たれた形で、休業補償と給付金にようやく本腰を入れようとしている段階に入ったのが現在までの流れです。

以上が僕なりにこのコロナショックを現時点で俯瞰してみたつもりなのですが、(俯瞰というのはあくまでも情報分析的な話で、僕の身近な人でも妊婦でありなが医療従事者として最前線に立っている方や、現場の関係者の方々の心労は計り知れないものであることや、この非常事態宣言下にありながらも生活インフラを維持すべく、普段以上に過重労働の環境にありながらも物流のお仕事に挑んでいる方々が居られるのは重々承知の上です)
ここからが、僕オリジナルで吐き出しておきたいことなのですが、最初にこの雑記の冒頭で触れた、『ある友人から気づかされた視座』について述べたいと思います。

コロナショックで世界の日常が一変してしまったことで、きっと大多数の人々の思いが(当初は僕も含まれていました)平穏な日常が失われたという不安に染められてしまったことは紛うこと無き事実です。

それに対して友人から気づかされて、僕自身ハッとして得た新たな視座というべきものは、
『これがデフォルト、言い換えれば正常なのではないか?』
という一つの見解でした。

あくまで誤解のないように述べておくと、その会話の時点で世界中で5万人以上の人々が亡くなっていましたが、その方々の死を軽んじて正常であると言っている訳では決して無いのです。

言葉を増やして説明すると、今、皆さんの目や耳、つまり五感を通して感じられる『この情報空間に存在する確かな不安』それこそが、近代以降全世界中の人々が忘れてしまっていた不安であり、その不安を我々が今確かに取り戻しているということが正常なのではないだろうか?という見解なのです。

加えてその不安は単にテレビや新聞やネットでの情報空間に限らず、肉眼では捉えられずとも、現に実際に我々の身近に忍び寄って、命を奪うかもしれない、また現に奪われている人々がいるというリアリティを以て、皮膚感覚としても我々はその不安を感じているのです。

と言うと、「いやいや、そもそもそんな不安は世界にあってはいけないもので、あなたがたはその不安がある状態を正常であると、つまり、このコロナショックで混乱した世界を寧ろ歓迎されているのですか!?」
なんてご意見を頂戴しそうですが、否、けっしてそうではなく、人々が不安を感じることが無く、そしてなるべく人々が息災安穏で暮らせる日常を僕も願って止まないのです。

しかし、目下あらゆるメディアの媒体で目に入ってくる一つの重要なセンテンス、それは例えるならば、正に『王様は裸だ!(現代社会のシステムは誤魔化されてきたのだ!)』という事実であり、それにかなりの人が目覚めたという状況が今ではないでしょうか?

政府を動かす人々を始め、市井の居酒屋で愚痴を言いあうオジサン達、そして僕も含め全ての人々が、現代社会の弱さ(脆弱性)が露呈した、或いは我々は堕落(驕慢)していたのではないか?
という同時多発的な意識の変化を僕たちは多少なりとも感じているのではないでしょうか?

ここで、堕落(驕慢)という言葉を敢えて使っていますが、それは近代から現代までの社会そして今を生きる我々が怠けていたという訳ではなく、何か重大な思い違いをしていたのではないかということです。

もうお解りの方もいらっしゃるかもしれませんが、その思い違いとは、実は意外と常日頃から誰からともなく凡庸に言われている、自然との付き合い方、又は、人間も自然の一部なのである、更には自然への畏怖という視座をもう一度見直すべきではないかというへり下って言うならば一介の啓蒙なのです。

かなり抽象度を落とした話で説明すると、僕の住む高知県を例に出せば、県のここ数年先までのグランドピクチャーとしては『リョーマの休日~自然&体験キャンペーン~』別名、昨年までの幕末維新博に続く『アウトドア博』として積極的な企業誘致を図り既にアウトドア関係の大手2社が進出し、高知の自然を資本とした企業経営を展開している状況です。

それに関しては、賛否両論、ブランド力を持つ有名企業の進出によって県外客&インバウンドの莫大な来高によって地元経済が潤う、それに付随して地元の人たちの雇用拡大にも繫がるという大義名分がありますし、かく言う僕も、日高村の自然体験ツアーの立ち上げにかなり関わって、田舎の地域おこしには自然を利用する手はないと当たり前に考えていました。(言い訳がましいですが、自然とは切り離せない修験道へのゲートウェイ的な意味合いで、それによって逆に観光を利用してやろうという魂胆で、僕なりの矜持を現在でも自分は保っているという事を一言ここに書かせてもらいます。)

しかし、このコロナショックによって、つまりウイルス(今回の新型コロナが人工的に作り出されたという噂は敢えて脇に於いておきます)という自然の脅威によって日本を含めた先進国取り分け地球一のコスモポリタニズムを担ってきたニューヨークが甚大な被害を受けているということが僕にはとてもショッキングに映っているのです。

ついでに、僕個人が非常にショッキングだったのはアメリカやフランスの原子力空母の乗組員にそれぞれ数百人規模で感染者が出ているという報道でした。
この報道は公式にプレスされていますが、両国とも敢えて平静を装った声明のように感じます。もちろん、艦内での感染拡大を防ぐのが逼迫した事態であるとの医療的な観点からは全く平静ではないのですが、僕個人の穿った見方をすれば、これがもし核武装化された原子力潜水艦でも感染者がでているとしたらならば、世界の軍事的パワーバランスに新型コロナが与えた衝撃は想定外だったのではないでしょうか?
(映画『復活の日』が頭をよぎった、いや、かすめたぐらいの人もいらっしゃるのでは?)

というわけで、この新型コロナの影響は現代社会のシステムの脆弱性をとことんまで白日の下に晒すことになったわけです。
その日本も含めた現代社会には○○主義や□□主義や〇△主義も含まれるわけですが、では、そのシステムの脆弱性の根本にあるのは何なのでしょうか?

あくまで、僕一個人の見解に過ぎませんが、それは

人間は一つの要素として一般化でき、且つ、一般化できるものの中では、あらゆる現象は再現化でき、そこで生じたある種の成功モデル、またはシュミレーションや予測して得られる理想、そしてそこから導き出されるXX主義、つまりは人類が共栄していく上での普遍的な何かがあるに違いないとされてきた誤解=驕慢ではないでしょうか?

ここからが、一番言いたい事なのですが、↑の意味に於いて、今僕たちははもう一度グローバルとかダイバーシティなど、インターネットが莫大に普及した10年以上前から盛んに使われるようになったその言葉をもう一度考え直す時ではないでしょうか?

その言葉の背後にあるものは、ある種の普遍性と多様性です。繰り返しますが、人間を一般化し平均化し再現性を高めるという、それは一見超合理的に見え、どんなXX主義でも通用するように思える自惚れだったのではないでしょうか?

日本でもコロナショックが始まって以来、常に問題提起されているのは『命と経済』そのどちらを優先するのか?(0:100の議論ではないですが)という話題で常に議論がなされています。

この雑記の冒頭で紹介した磯野真穂さんの仰るところの『命と命』の問題、や『試される他者への想像力』という題で寄稿されていた仲正昌樹さんの結びにもある「痛みに関する集合的想像力を再活性化しない限り、この問題に出口はない。」という見解を踏まえて、大変僭越ながら僕がその先を予見すると、

多様性や多元性について今一度考えなおすべきじゃないか?

という僕なりの見解を述べておきたいのです。

これは、自分自身への反省の意味も込めているのですが、僕はウィリアム・ジェームズという哲学者が好きで、氏が著作で言われるところの『多元的宇宙論』というものにとても共感を抱いていました。

多元的宇宙論とは、一言で言えば、神という概念をある種の超越として各々が信仰しながらも、その神が万能や全能でなくてもいいじゃないか、とする寛容な精神論といえます。

しかし、僕は今回のコロナショックを体験していく中で、人間の一般化、つまりいろんな基礎疾患や体力差や生まれつきの障害、さらには精神的な隔たりによって、人間が物理的に集合しながら且つ多様性と多元性を実現するのは不可能ではないだろうかと考えなおしました。

しかし、もちろん僕の理想でもある多様で多元的な社会、ひいてはこれが世界平和への理想となってくれれば有難いのですが、これを実現する為には、僕たちは、人間も自然の一部であり、一般化できない生まれ持った個体差があり、それを考慮しての社会設計をもう一度考え直すべきではないかと思うに至りました。

これは決して優生学的な話では無いのですが、もう国や自治体という概念を超えて、1人の一般化できない人間一人一人が如何にして豊かな命を全うするかという大前提に於いて考えると、物理的に人々はその生まれ持った特性(それはある種のウイルスに罹り易い等々)を踏まえた上で、物理的には離れていても、文化や芸術やネットを通して(もちろんそれ以外に仕事や恋愛や結婚も)共栄と共存ができる社会。
単にSF映画の見過ぎだと一笑に付されるかもしれませんが、最早人類は意外にも早くそういう見通しで地球規模な思い遣りを以て共存していくしかないのかもしれません。

しかし、未だに為政者達は、各国の世論の反応を伺いながら、ここぞとばかりに自身の政治手腕的レガシーを残そうとやっきになっています。
残念ながら我が国の首相はそういったリーダーシップさえ発揮できていない状況にあると僕には映るのですが・・・。

トランプ大統領も安倍首相も今回の新型コロナウイルスに対して「エネミー」「敵」という語句を敢えて強調して会見されていることにも、未だに自然をコントローラブルなものとして捉え、さらなる人間の一般化を推し進めようとするきらいを感じます。

右のページの文です

大変長くなりましたが、こんな中でも希望はあると僕は信じています!!

ですので、最後は前向きに締めくくるべくリチャードバックの名作イリュージョンに登場する実在する『救世主入門』から以下の言葉を引用して終わりたいと思います。

The bond that links your true family is not one of blood, but of respect and joy in each other’s life.

Rarely do members of one family grow up under the same roof.

家族の絆は血ではない。一個の家族が一つ屋根の下で成長し合うことはほとんどない。(訳:村上龍)

 


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「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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