主意主義であること

なんの脈略もないですが、日々思っていることを少し書きとめたいとおもいます。

有難くもこのブログに目を通して下さっている方はもうお分かりのように、私は子供のころから抽象的なことを考えるのが好きでした。

別に、悩み多き少年という訳ではなく、ただ思考する、というよりも夢想するに近いですが、とにかくあれこれと突拍子もないことを考えるのが好きでした。
もし、どれほど夢想家であるかを競うコンテストなるものがこの世にあれば、おそらく決勝戦に進むぐらいの自信は持ち合わせています。(笑)

しかし、最初に断っておきたいのが、私は決して頭の回転が速いわけでも、論理的思考力に優れているわけでもありません。
ただ、世間の平均から見て、大きくズレている点が2,3あって、それは『懐疑的である』ということと『メタな認知を志向してしまう』です。

『懐疑的である』、とは言葉の通りなのですが、『メタな認知を志向してしまう』について少し説明すると、これは自意識過剰がなせる業だと自分では恥じています。

いくつか例をあげて言うと、
自分が何かを楽しんだり意識を集中していると、ふと漠然と『枠』のようなものが意識の中に浮かび上がって、そうすると最初たしかにあった楽しみや、意識の集中が削がれてしまうのです。

それは、遊びでも、スポーツでも、音楽でも、買い物でも、人との会話でも、勉強でも、人間関係でも、何に対しても起こります。

昔は、ただ集中力が切れただけの中だるみだろうと思っていましたが、集中力が戻って外見上は依然と変わらず集中しているように見えても、一度感じてしまった『枠』の中にいる感覚は意識の底に沈殿したまま、ちょっと気まぐれに底をさらえでもしたら、すぐにまた意識は濁されて、自分で自分を混乱させてしまうのです。

上手く言えないのですが、『枠』とは、システムとか法則性とか、限界とかタイミングとかに言い換えることができます。

また、調子に乗れば、もっと根源的なアプリオリなものにさえ、いたずらに懐疑を起してしまうような嗜好というか・・・、すみません、漠然とそんな感じです。

良くも悪くも、すぐにメタに持っていこうとする癖が、私の意識の中で常に働いているのです。

さて、そんな自分にとっては、
「そんなこと思いもしなかった!」
「そんな発想がこの世にあったのか!」
みたいな感動は滅多にありません。

私にとって、思想的感動は高校生の頃までで出尽くした感があって、以後は頭の中に散らかしまくった思想の整理や、その中でとりわけ気になる思想を深く突き詰めた先達の残した論旨をてくてくと辿ったり・・・。

私だけでは無くて、『大人』と呼ばれる人々の大半は、他人にわざわざこんな小難しい話をしないだけで、じつは私と似たような感覚をお持ちかもしれませんが・・・。

 

と、前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

私は職業上からか、様々な新興宗教の信者の方から問答を受けたりします。以前は、街中を法衣で歩いている時、いきなり○○会の信者さんから折伏を受けたこともあります。(笑)

それに檀家様の中でも、それぞれ個人的な想いから、様々な新宗教の信仰と御仏壇への務めとを、立派に両立なさっている方もいらっしゃいます。

私は、個人の信仰は自由だと思っています。

しかし、宗教にありがちな『真理』とかいう言葉をじつはあまり好きではありません。

真理と呼ばれているものを追究するのは自由ですが、あくまでそれは個人の範疇での話であり、あかの他人から見ればそれはただの『こだわり』でしかありません。

本当の○○、究極の○○、など自身の主張を他の何らかと比較し、差別化している時点で、すでに自分たちが追いやりたい他のものと同じ世界にあり、少しも究極などと言えるものではないのです。

まぁ、そんな私の意見も、こんなネットの片隅で誰の目にも止まらないというのが正常な在り方であり、私の意見が万人に同調された時、その時点で私の言葉は本義を失ってしまいます。

つまり、誰もがそれぞれ言いたいように、また好きなように好きなものを信じていける今の世の中では、主意主義であることが、客観的に見て一番ハッピーな気がしています。
もちろん、そこには、自らが主意主義であるのだから、他人の主意主義に対してとやかく言わない、また、主意主義がぶつかる時には、先ずは話し合い、それでもダメな場合はその時になって悩めばいいのです。

最初から万事OKなシステムや行動哲学や摂理みたいなものを考慮して人生に向かおうとするのは、結構おこがましい考えだと、あくまで私には思えます。

つまり、身も蓋も無いのか言われれば、そうなのかもしれませんが・・・(笑)

この多元的な世界の中で、自分の価値感が万人にまかり通ることが不可能であり、それぞれが主意主義で、可能な限りの自己実現を遂げるために精進していく。

それこそが、私が言いたい、世に埋もれるべき個人的な主張です。


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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