相も変わらず、毎月28日の護摩の日には数人の方しかお見えになりません。
この日は特に少なくて、午前は0人、午後はお1人という状況でした。(笑)
しかしながら、人数が少ない護摩ならではの長所もあるのです。
それは、参加者の方一人一人とより密な会話ができるということ。
この日お見えになられた方は、檀家様ではないのですが遙か遠方からお越しくださいました。久しぶりの再会に話も弾み、40分程時間をおしての修法となりました。(笑)
私としては、いろんな人が代わる代わるお越しになり、日々の悩みや相談事、さらには他愛ないお喋りなど、仏教のロングテールな窓口として毎月の護摩を利用していただけたら・・・、なんて考えています。
しかし現実はそんな週替わりのドラマのようではなく、特定の方が何回かお越しになられてそのうちフェードアウトされるか、また1回だけ興味本位で来られる方、はたや数年にわたり毎月の28日を気にかけて下さっている方々、などなど・・・。
毎月数人しかお見えにならない護国寺の護摩でも、長い期間で見ると、皆さんそれぞれ様々な動機が有られての参加であることが窺えます。
さて、護国寺の桜に合わせるかの如く、この日は久しぶりの一対一の清談にも花が咲きました。
清談とは、「俗世間を離れた風流・高尚な話、またそれを談ずること。」ですが、なにも高尚な話題ではなくても、素朴な感慨や、公には憚られるトンチンカンな話でも、それらに対応できる人一倍のキャパを、私は備えているつもりです。
近頃は何かと忙しく目の前のやりたい事に夢中で取り組んでいる私にとって、この日の清談の小一時間は、フッと力を抜いて頭を柔らかくする貴重な時間でもありました。
その清談の最中、自分で話していて改めて思い至ったのが、『出来高8割の自分』です。
(最初に断らせていただきますが、以下これは私のオリジナルの考え方であり、仏教の教理ではありません。)
出来高とは、何かの物事や、取り組み、さらには人間関係などに向かう時の自分の完成度とも言うべきものです。
ともすれば我々は、日頃からその自分の完成度を100%に高めた上で事に当ろうと、または人に関わろうとしています。
そうなってしまうのは、100%の自分でいることが、自分にとっても、また周囲の物事に対しても益が大きいと考えがちだからです。
もちろん、理屈ではそうなのですが、現実の我々の日々の営みは、そう計画通りには運ばないものです。
準備不足を良しとする旨は毛頭ないのですが、ある程度の余裕や伸びしろを敢えて意識しながら事に当る方が、自他共にいろいろと面白いことが起こるようです。
その理由は、『心』というものの不思議に秘密があるからだと私は考えています。
以前の寺報にも書いたことなのですが、
心が自分の中にあるのではなく、心の中に自分がいるのです。
つまり、心とは外部と常に接していて、絶えず変化しているもの。
それはまさに諸行無常であり、空そのものなのです。
その心によって意志が生まれ、意志によって行動は起こされ、その行動の積み重ねが自分という出来高、つまり量的な自己として認識されます。
「私はこれこれを、ある期間、あんな事やこんな事をして、いままで積み上げてきました。はい、どうですかこれ!?」
とでも言うように認識しているのが量的な自己です。
けれども、その量的な自己をそうある姿に足らしめているのは、実は『心』なのです。『心』は先に説明したとおりです。
ということはつまり、いくら量的な自己が膨れ上がっても、その意味付けを担う『心』のカラーが外部からの影響で一瞬にして変わってしまうと、一気に量的な自己それ自体の意味も変わってしまいます。
下品な例えですが、積み重ねてきた量は一緒でも、その一個一個が、1円に変わったり1万円に変わったりするのも、『心』の変わりようによって多分に起こり得ることなのです。
「私がやってきたことは間違っていたんだろうか?」
という迷いや、
「自分では思いもしなかったけど、今まで何気なくやってきたことを人に褒められて凄く嬉しい。」
などの自信、
それらは、正に心が自分より大きいものであるからこそ、また自分よりもはるかに広く外部と接しているからこそ起きることなのです。
迷いによって信念が揺らぐ時、また思いがけなく与えられる自信も決して過信にならぬよう、したたかに歩みを続けることこそ不動心の実践です。
また、その不動心の実践を促す意志こそが、量的な自己に対しての質的な自己であると言えます。
人生には100%、いや120%を出し切らなければならない時も多々あるものですが、不動心を以っての日頃の営みの中にあっては、自分の完成度は8割ぐらいでいきたいものです。
そう、ハンドルも『遊び』があるから真っすぐに運転できるんですもの。
知らないことは教えてもらおう。
間違いは正してもらおう。
出来ないことは一緒にやろう。
他力本願とはまた微妙に違う、変に勘ぐってしまえば狡猾とも言えるのかもしれませんが、この『出来高8割』の自分が、実は自らの限界や現状を超える鍵なのかもしれません。
と、そんな事を考えさせられた、よき清談でした。
南無