法話の機会が続きます

照るてる坊主の甲斐もあってか、地元の加茂小中の合同運動会が無事開催されました。

ぎりぎり運動会ができるコンディションでしたが、途中で結構な本降りに襲われたり、強烈な湿度に時折照り付ける日差しが痛かったりと、過酷な天候の日でした。
小中の人数合わせても160名に及ばない小規模な運動会ですが、子供たちも誰一人だらけずきびきびとしていて、一生懸命でした。20160917_000604438_ios
さて、次回の行事としても告知しております今月25日の彼岸会に合わせた法話会ですが、有難いことに、檀家様以外の方々からも、ちらほらとではありますが参加のお声をいただいております!

さて、私が法話について考える時、いつも思い返す体験があります。
それは一昨年の6月に、ある御縁から参加させていただいた、仏教伝道協会が主催する永平寺での実践布教研修です。

永平寺とは、言わずもがな曹洞宗の大本山であり、宗祖の道元禅師が開かれた福井県に御座す大変修行が厳しいことで有名な坐禅の聖地です。

そこに、他宗である浄土宗、浄土真宗、時宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、臨済宗という様々な宗派の僧侶が集い、2泊3日という短い時間の中で、永平寺内局の皆様の献身的なご協力に与りながら、お互に研鑽を深め、それぞれが自らが所属する宗派の可能性を再発見したのでした。

その研修の最後に、各班に分かれて行った研修発表があったのですが、そこでそれぞれの班を代表して発表をなされた僧侶の方々の法話じみた話しぶりに、私は甚く新鮮な印象を受けたのでした。

その時の皆さんの話しぶりは、各々が大変個性的で、私は特に自分と同世代の若い僧侶の方々の話しぶりに興味をおぼえたのでした。

私に限らず普段僧侶の法話や説法を聴く機会とは、昨今非常に少なくなっているのではないでしょうか?
法事や葬式などの機会が有るとはいっても、近頃は説法を積極的にする僧侶とはなかなか出会う機会が少ないと個人的には思います。

ですから、その研修会での発表の折に目にした様々なスタイルの話しぶりは、私にとって大変勉強になりました。
どストレートに『THE僧侶』というらしき話しぶりの方もあれば、喫茶店での友人トーク的な方もあり、更にはベテランの営業マンに見受けられる解り易く明快な論調で器用に笑いを挟み込みながら発表を進める僧侶の方もあり、私はそれらを聴いているうちに、
なにも、形式ばらなくても、普段の自分の話しぶりでいいのだな・・・。」っと肩の力が抜けたのでした。

何事も、先ずは『真似る』ことから始まり、それが『場を踏む』を繰り返すことで、経験値が上がり同時に個性も磨かれていくのだと思います。

私も普段のお参りの時には、なるべく法話じみた話をすることにしています。
それはもうかれこれ8年程前からですが、未だに「滑りまくり」の時があります。(笑)

檀家さんの頷きや笑いなどのリアクションが大いに感じられて、「今日はいい感じで話せたな~(‘ω’)」という時は、恥ずかしながら今でも10回に1回ぐらいです。
その他は、「へぇ~・・・(無表情)」か、「妙な事を言うとるわぁ・・・(無表情)」な場合がほとんどです。(笑)

実際、葬式や法事にお集りの方々は、あくまで故人様への供養をしにきているというスタンスな訳で、なにも仏教の事を学びたいんじゃないんだよ、という心情はよく理解できます。

私も、なるべく仏教の教理的なことよりも、『人が人を想う』的な抹香の香りが控えめな話題を心がけてはいますが、時にはトリヴィア的な蘊蓄や、荘厳関係などの実践的な内容でも高いリアクションを獲得することがあります。

そんな訳で、私が法話をさせていただく機会をなるべく増やそうとしているのは、正直に言って第一には自らの為です。

駑馬十駕

「僧侶は60歳から耀いてくる。」と、昔ある先輩に言われましたが、8年かかって私もようやく人前で話す時の『恥ずかしさ』ぐらいは克服できたかなと思います。
60歳まで生きられるかわかりませんが、今の内にたくさん恥をかいて、いろんな場を経験させていただくつもりです。
(来る10月1日、聖護院の修験講習会の枠をいただきまして、そこでも法話をさせていただきます!。

南無


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です