高知の山伏が平服で三峰神社に参拝した話1

6月7日、聖護院門跡で毎年開かれている修験道の開祖役行者神変大菩薩の御遠忌法要に出仕し、翌8日は宗会に出席。さらにその足で京都から埼玉へ向かい、9日から10日のまる2日間に渡り三峰神社を中心に秩父に残る聖護院の歴史を辿りました。

三峰神社と言えば、つい先月まで頒布されていた『白』い『氣守』が地元では10数キロの渋滞を起すほどの爆発的な人気を博し、また三峰神社自体が至極のパワースポットとして再々テレビでも取り上げられたことから、昨今の関東圏の中で凄まじい注目を浴びています。

しかし、その三峰神社と修験道には実は深い関わりがあることや、ましてや本山派修験の総本山である聖護院との間の長い歴史については、パワースポット目当てに訪れる人々の大半には知る由もなく、またそれは秩父から遙かに離れた高知に住む私にとっても同じことであり、今回の登拝を案内して下さった瀧田さんとのご縁を通じてつい最近になって知ったくらいです。

けれども私が三峰神社に登拝しようと思ったきっかけは、何も秩父で本山派修験の法脈を辿ろうなどと言うアカデミックな動機ではなく、私の地元である日高村の大滝山に人を呼び込むための言わばガイド研修的な目論見が先行していて、それが頭にあった私の目にフェイスブック上で繋がりのあった瀧田さんの活動(法螺貝の音色を聴きながら山伏との山登り参拝!)が留まったからなのでした。

という訳で前置きが長くなりましたが、以下に続くこの記事の趣旨としては『白』い『氣守』ブームに沸いた三峰神社のまだまだ意外と知られていない側面を知っていただくことで、これからの参拝者のより充実した参詣に寄与したいというものであり、また三峰を含む秩父山系の恵みに感謝しながら地域の人々に寄り添い、修験者としてまたガイドとしてひた向きに活動を続けられている瀧田さんに対する私の素直な共感を綴っていきたいと思います。

 

9日の早朝、春日部の親戚宅を出て6時31分発の電車に乗り、羽生駅で秩父鉄道に乗り換え、瀧田さんとの集合場所である秩父駅のロータリーに着いたのが8時50分前。

とりあえず埼玉まで来ておけば、朝せいぜい1時間程の移動で登山口かな?なんて安易に考えていましたが、埼玉の奥行きを舐めていました。秩父駅の改札も自動ではなくて人通りも少なく、『秩父』という名称から何故だかメルヘンな先入観を抱いていた私にはかえってそれが好印象に写ったのですが、後から聞いた話だと池袋からレッドアローなる特急列車を乗り継いで1時間半弱で西部秩父駅に来るルートが現在は主流とのことでした。

瀧田さんの車に乗り込み、三峰神社の表参道の登り口を目指します。

一面に石灰岩が露出した武甲山を見上げながら、道路は少しずつ標高を上げ、当たりの景色も緑が目立ちます。
いざ辿り着いたというのに未だメルヘンな先入観を捨てきれずにいたのは、車から眺める風景がやはりどこかメルヘンな風情を醸し出している気がしていたからでした。

メルヘンというワードを実際に口にすると、些かこの土地に対して失礼な気がして
「なんだかジブリっぽい感じがしますねぇ~。」
という何気なさを装った私の感想に、
「宮崎駿さんは所沢に長年住まわていて、この秩父の山々もかなり歩かれていてそれが作品にも反映されているようですよ。」
と瀧田さんが応えてくれて、とてもスッキリ合点がいきました。(^^)/

そんなミーハーな気持ちの旅行気分でしたが、いよいよ車は登り口へ到着しました。

案内板の地図
瀧田さんが用意してくれていた地図。ルートは解り易いですがひたすら登りです。
一つ目の鳥居
よくある神社の狛犬・・・と思いますが、詳細は後ほど。

 

歴史を感じるたくさんの石碑が建てられています。
なぜここに築地市場の文字が・・・?
この日は土曜日、私たち意外にも登山者は多かったです。
高知では熊に関しては心配無用ですが、やはり土地が違います。
ここから瀧田さんの本格的なガイドが始まります。

さて、少し含みを持たせた上の画像の解説ですが、何はさておき三峰神社の歴史は記紀神話の時代に遡ります。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が景行天皇の命を受けて現在の山梨県からこの地に入り、そしてこの山々からの眺めに、かつてのイザナギとイザナミの尊による国造りに想いを馳せ、雲取山・白岩・妙法ヶ岳の三山を三峰と名付け、その両神を偲んで御祭神として祀りました。

その後、修験道の開祖である役行者が伊豆に配流された折に雲取山で修行をし、さらに後には弘法大師空海も天皇の命によりこの地に観音像を納めたのでした。

そして時代が下り、1533年には聖護院から三峰大権現の神号を授けられて以後、浮き沈みあったようですが修験道の霊山として信仰を集め、江戸時代には三峰神社と観音院高雲寺という寺が隣り合って鎮座し、まさに神仏習合の聖地として江戸庶民から篤い信仰を以て仰がれたのでした。

そういう背景から、上の画像に登場した『築地』の文字は、江戸時代に栄えた講社と呼ばれる町人同士の相互扶助によって形成される山登りのグループが江戸各地からこの三峰へ参拝したことを物語っています。

その理由として一番に考えられるのは、この三峰山が江戸を流れる墨田川さらにはその本流である荒川の源流地点であり、麓の秩父全域の農村での豊穣はもとより川が流れつく先の江戸の海での大漁までをも、その恵みは三峰山あっての賜物であるとされたことでした。

そして、一見何気なく見えた狛犬は実はニホンオオカミであり、三峰神社を信仰する人々はこれを『御眷属様』と呼び、ある意味御祭神以上に親しみを込めて接してきたのでした。

秩父は大農村地帯であり、大昔から鹿や猪などに田畑を荒されることがこの地の人々の中で死活問題としてありました。ニホンオオカミは食物連鎖の頂点に立つ肉食ですので、人間にとっては害獣とされるそれらの動物を狩ってくれる大変有難い動物として崇められました。

また、都会の江戸においても当時は江戸特有の強風による火災などが町人にとっての脅威であり、現在でも番犬とも呼ばれるように犬はちょっとした変化でもすぐに吠えて知らせてくれるということが犬に似たニホンオオカミの御眷属様信仰と結びついたのでした。

そしてニホンオオカミの『御眷属様』は御札に描かれ、それを各家々の玄関に貼ることで大いに害獣除けや火災除けになり、現在の『白』い『氣守』を遙かに凌ぐ人気ぶりなのでした。

そういう訳で、ヤマトタケル、修験道、水、ニホンオオカミ、など何重もの観点からこの三峰神社の信仰の歴史は現在に連綿と続いています。

沢の傾斜は半端なくきついです。
もののけ姫を思わせる苔の世界も広がっています。
これが確か16丁目を告げる丁目石。標高が上がるほど丁目石の間隔も詰まって来るらしく、なんだか人間味溢れる拵えでほっこりします。
崩落している箇所には臨時の橋が架けられていて、道の整備は行き届いています。
ここはかつての水垢離場。空手の大家大山倍達師もここで滝行をされたようです。
冬場、この小さな滝は氷柱ができるらしく、瀧田さんはその画像をフリップにして実際に私に見せてくれました。「違う時期に来ればこんな感じですよ~」と説得力を出せる画像のフリップはやはりガイドには必須なアイテムです。
その滝を過ぎるとすぐに足元に見えるのが二つ目の鳥居跡。
画像の左右の苔の上にかつては大きな鳥居が建っていました。
しばらく登ると、薬師堂跡の休憩所。ここはかつての女人堂だったそうで、画像を撮り忘れたのですが付近には『沙尼』の字がついたお墓もありました。10分ほど休憩し、瀧田さんから冷たい水の御接待を受けました。

(やっぱり長くなってしまったので一旦ここで切ります💦、また次回に続けます(^^)/)

 


taichi
「信念が事実を創り出す」をモットーに、現代に生きた仏教を模索していきます。

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